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2014年8月15日 (金)

多様な資料の保存の必要

プロジェクトが始動して1年が経ちました。おかげさまで様々な資料のご提供を頂き、聞き取り調査も50件以上を実施することが出来ました。また、諸機関からお問い合わせを頂き、報道などでも取り上げていただきました。

さて、最も関心を集めていることは、資料を集めているという点のようです。ただ、少し誤解があるのは「戦歿者の資料だけを集めている」というように理解されがちなことです。このプロジェクトでは、この時代を生きた慶應関係者の多様な姿と経験を記録することを目的としており、戦争を越えて戦後を生きた方々の資料も収集しています。

また戦歿者についても、多様な姿を記録することに注意しています。特攻で亡くなられた方は、どのような心境で最後の日々を過ごされたかなど、貴重な記録になることはもちろんです。一方で、「玉砕」などによって亡くなられ、一人一人には光も当たらずに70年を経過した方々もたくさんいらっしゃいます。

最近ご提供いただいた資料の一つをご紹介します。

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こちらは、河合次郎さんの遺書です(妹の皆様が連名でご寄贈下さいました)。学徒出陣で在学のまま昭和18年12月1日陸軍入営、まもなくサイパンに送られ昭和19年7月18日に戦死されています。春頃に書かれたらしい遺書には、「深刻な気持はしません」とありますが、次のように締めくくられています。

「万一の場合は唯次のことを家の記録にのせて下さい。次郎と言ふ者があった。慶應義塾大学法学部在学中、大東亜戦争の熾烈化するに伴ひ、敢然として銃を取り、大東亜共栄圏建設の礎となって一兵として散華したと。唯かう伝へて下さい。」

学徒兵は、入隊から数ヶ月で軍の幹部要員として試験を受けると、階級がすぐに上がっていくのですが、この方の場合そのチャンスがないままサイパン行きになったので、「一兵」として戦死することになりました。

特攻で亡くなり、ネット上で名前を探すことが出来る方も、この河合さんのように人知れず亡くなられた方も、あるいは様々な経験を経て戦後を生きて行かれた方も、それぞれにこの時代を生きた先輩方であり、その個別の具体的な姿を残しておくことが、この時代を考える材料として意味を持つのではないかと考えています。

現にプロジェクトには、戦後の人生を全うされた先輩方の資料もご提供頂いています。中には、無事復員された方が戦争中に万一のために書いていた「遺書」をご提供下さった例もあります。今後も多様な資料、多様な経験の記録を続けていきたいと考えています。プロジェクトの名前を「アーカイブ」プロジェクトとしているのも、そのためです。

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