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2015年2月18日 (水)

戦争末期の藤原工業大学と、その学風

理工学部の前身である藤原工業大学は昭和19年の夏に慶應義塾大学工学部となりましたが、もともと慶應に寄附される予定であったため、昭和14年の創立の当初から慶應のキャンパスの中に校舎が作られました。日吉駅から見て銀杏並木の左側、現在大学の校舎が建ち並んでいる敷地です。

その藤原工業大学に、昭和18年末に就職したという山本弥生さん(旧姓斎藤)のアルバムを寄贈して頂きました。そのアルバムからいくつか写真を。

Fmc001_rこの写真は、学生または院生(特別研究生)と女性職員の集合写真のようですが、まるで戦争末期の雰囲気がありません。しかし壁に貼り出されている(?)文字を見ると、「イザヤコソ撃チテシ止マン」などと勇ましいことが書いてあり、それとのギャップが興味深く思われます。後列左から2人目は久野洋さん(後の塾長)ではないかと思われます。

Fmc002_rこの写真は、昼休みのバレーボールか何かでしょうか。背後は藤原工大予科の木造校舎(現在の塾生会館の辺り)で、女性たちが立っている場所は当時のグラウンド。現在の食堂棟や来往舎の辺りです。

Fmc003_rこれはバレー(?)の集合写真の隣のページに記入されている言葉です。キャプションではないようです。当時からキャンパスの裏の谷を「まむし谷」と呼んでいることがわかります。そちらではバスケットをしています(現在慶應高校のバスケ・バレーコートがある辺りのことでしょう)。先生が講義だからと、10時半からバスケとは!

これらの写真は昭和19年中のものと思われますが、学徒出陣後のキャンパスの「日常」がわかる非常に珍しい写真です。

先日、元衆議院議長の綿貫民輔さん(昭和25年卒)の聞き取りをさせて頂きました。綿貫さんは昭和19年に藤原工大入学(専攻が廃止されたため、戦後経済学部に転部)で、まさに当時日吉に通っていた学生ですが、お話によると、当時の藤原工大生は、「制服は慶應と一緒でも、俺たちは藤原工大生だ」という強い自負があり、学風もかなり違ったとのこと。裸足で草履を履き、腰からは手ぬぐいを下げたバンカラ風をしていたとのことで、慶應生の制服の歴史に関心を持っている私は、不覚にも全く初耳で驚きました。

昨年、理工学部75年のパーティーで、大合唱が起こった惜春の譜(はたぐも)という藤原工大生の歌が、旧制高校の寮歌のような雰囲気を持っていることを思い出しました。その歌詞は以下のようなものです。

 惜春の譜(はたぐも)

  鰭雲(はたぐも)遠き野にたちて 
  春を送りて鳥啼けば
  帰らぬ生命惜しまれて
  君がまみ(瞳)にも涙あり
  嗚呼 青春の日は逝かんとす
   (※1番のみ。本当は4番まであります。)

アルバムの写真からわずかの後に、工学部の校舎は空襲で壊滅、戦後は仮校舎を転々としたあと小金井に落ち着き、日吉に戻ってくるまで20年以上を要しました。昭和46年の日吉(矢上)への移転を日吉「復帰」と呼んだことに苦難の歴史がにじみます。

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