ギャラリートークの予定
「慶應義塾福沢研究センター所蔵 福沢諭吉・慶應義塾史新収資料展」にてギャラリートークを行います。
2016年7月13日(水)14時40分から(30分程度)
2016年7月22日(金)14時40分から(30分程度)
いずれも当日、三田の図書館新館展示室に直接お集まり下さい。
「慶應義塾福沢研究センター所蔵 福沢諭吉・慶應義塾史新収資料展」にてギャラリートークを行います。
2016年7月13日(水)14時40分から(30分程度)
2016年7月22日(金)14時40分から(30分程度)
いずれも当日、三田の図書館新館展示室に直接お集まり下さい。
三田の慶應義塾図書館新館1階展示室で、「慶應義塾福沢研究センター所蔵 福沢諭吉・慶應義塾史新収資料展」が始まりました。会期は7月1日~30日(日祝休館)です。
今回はこれまでのような戦争一色の展示では無く、福沢諭吉自筆資料や、福沢著作の版木、その他慶應義塾史に関連する資料も展示していますが、戦争関係が3分の1以上を占めています。また、これまではディスプレイの専門業者にお手伝いいただいていましたが、今回は完全に学生・院生と完成させた展示会場です。
展示会場の当プロジェクトのコーナーでひときわ目立つ日章旗は、これまでの展示に毎度ありましたが、欠かせなかった塾長小泉信三の署名がありません。そのかわり別のある人物の署名が一つだけあります。かなりの珍品と自負しています。さあ、誰の署名でしょうか。
そしてもう一つ目立つのが、グーテンベルク聖書用の展示ケースに鎮座まします、「シャコ貝」です。この巨大な貝殻は、昭和15年7月の野球部ハワイ遠征の際に持ち帰られ、予科教員の亀井常蔵氏に贈られたもの。真珠湾攻撃の1年前でもこういった交流があったことは少々驚きです。
ハワイでは日系人チームや現地人チームなどと盛んに試合を行ったようですが、到着後最初の試合は米海軍とのものだったようです。翌日の読売新聞の見出しが面白いです。「慶應、米海軍を破る」。この20キロ以上ある貝殻を、持ち帰った野球部員も野球部員ですが(親しい先生への土産というか冗談だったのでしょう)、それを70年間保管していた方も保管していた方です。真珠湾攻撃前夜の日布交流を伝えるこの遺物は、法学部教授亀井源太郎先生から寄贈されました。
資料の寄贈は続いています。
これまで戦没者名簿に記載されていなかった、宮崎克実さん(昭和9年経済学部卒)の軍歴及び戦死に関する記録類を、御子息でやはり慶應ご出身の弘実さんがご寄贈下さいました。
ご本人の自筆資料は一つもありませんが、厚生労働省、大分県(本籍地)、靖国神社等から得られた戦没に関する資料の写しを一括ご提供いただき、また戦友からの戦没状況を知らせる手紙や戦死公報等の原本もあわせてお寄せいただきました。一人の人間の死の記録がどのように残っているのかを考えるとき、余りに簡素で、また粗末であることに衝撃を受けます。
宮崎さんは昭和20年5月臨時召集で満洲で陸軍入隊、21年3月頃牡丹江省にて栄養失調のために戦病死。遺骨は戻らず、お墓に入っているのは「陸軍上等兵宮崎克実之霊」と記す木札のみとのこと。
戦死公報は、昭和23年に妻に届いたもので漢字ひらがな交じり、大分県知事の名義で届けられています。その公報に付けられた大分市長の添え状に「名誉の戦(病)死」の文字があります。行政の作成した文書なので、この言葉が戦後もこの時期にはまだ違和感なく生き残っていたのか、ただこの資料が例外なのかはわかりませんが、戦争終結による価値観の急転換の中でのエアポケットとしても、この言葉が強烈に頭にこびりつきます。
慶應大阪シティキャンパス(KOCC)は、グランフロント大阪北館タワーC・10階ですが、とってもわかりにくいです!ポスター等も掲示できないことから、案内無しにはなかなかたどり着くことができません。私なりの解説をしてみたいと思います。
1)こちらJR大阪駅から直結のグランフロント大阪です。まずはとにかく「グランフロント大阪」を目指します。
2)グランフロント大阪に入ったら「北館」の1階を目指します。
3)北館の1階はこんなところ。吹き抜けのある開放的な空間です。
4)北館1階の奥に「タワーC」のエレベーターへ通じる扉があります(タリーズコーヒーの奥です)。警備員さんがいて入りにくいですが、ひるんではいけません。迷わず進みます。
5)エレベーターは左右に分かれていますが、右側のエレベーターです。目指す10階は右側のエレベーターでしかたどり着けませんのでご注意ください!
6)北館タワーCの10階にたどりついたら、あとはおわかりになると思います。廊下に沿って歩いていけば、最初に現れるのが「慶應大阪シティキャンパス」です。