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2015年4月 1日 (水)

真珠湾攻撃に参加した佐々木正五さん

慶大医学部名誉教授で、東海大学医学部初代学部長を務められた佐々木正五さん(昭和16年医学部卒、昨年11月逝去)の遺品をご遺族からご寄贈いただきました。

佐々木さんは、伊号第四潜水艦の軍医長として、真珠湾攻撃に参加。ご寄贈いただいた資料には、そのときの使用品や日誌なども含まれます。

日誌は、慶應医学部時代の「法医学」の授業ノートのあまりを使ったらしく、表紙には塾旗やペンマークのデザインがあります。 Dscn4000_r

中には酸素濃度などの記録等の淡々とした記述があります。交信が遮断されているので戦闘の詳細はわからないが、今頃出動している機動部隊の「成功ヲ祈ルノミ」とあります。伊4は周辺海域での監視を行っていましたが、一度は米艦船に包囲され、危うく撃沈されそうになったようです。このことについては、『三田評論』2011年12月号掲載のご本人執筆の興味深い記事があります。 Dscn4001_r

目を引くのは佐々木さんのお父様が息子の記念品としてとってあった軍装品です。正五さんが真珠湾攻撃の際つけていた鉢巻と軍帽の前章(帽子の前面についているマーク)を丁寧に和紙で包み、赤い紐をかけて保管してあります。帽子の前章は、潮をかぶりさびている、とあり、実際酷く変色しています。 Dscn4002_r

これらの資料は、次回の展覧会において、【特別出品】として展示予定です。展覧会についてはまもなく告知させて頂きますが、6月1日~8月6日の期間で図書館展示室にて開催を予定しており、そのうち7月1日~31日は、アート・スペースとの同時開催となります。

2015年2月18日 (水)

戦争末期の藤原工業大学と、その学風

理工学部の前身である藤原工業大学は昭和19年の夏に慶應義塾大学工学部となりましたが、もともと慶應に寄附される予定であったため、昭和14年の創立の当初から慶應のキャンパスの中に校舎が作られました。日吉駅から見て銀杏並木の左側、現在大学の校舎が建ち並んでいる敷地です。

その藤原工業大学に、昭和18年末に就職したという山本弥生さん(旧姓斎藤)のアルバムを寄贈して頂きました。そのアルバムからいくつか写真を。

Fmc001_rこの写真は、学生または院生(特別研究生)と女性職員の集合写真のようですが、まるで戦争末期の雰囲気がありません。しかし壁に貼り出されている(?)文字を見ると、「イザヤコソ撃チテシ止マン」などと勇ましいことが書いてあり、それとのギャップが興味深く思われます。後列左から2人目は久野洋さん(後の塾長)ではないかと思われます。

Fmc002_rこの写真は、昼休みのバレーボールか何かでしょうか。背後は藤原工大予科の木造校舎(現在の塾生会館の辺り)で、女性たちが立っている場所は当時のグラウンド。現在の食堂棟や来往舎の辺りです。

Fmc003_rこれはバレー(?)の集合写真の隣のページに記入されている言葉です。キャプションではないようです。当時からキャンパスの裏の谷を「まむし谷」と呼んでいることがわかります。そちらではバスケットをしています(現在慶應高校のバスケ・バレーコートがある辺りのことでしょう)。先生が講義だからと、10時半からバスケとは!

これらの写真は昭和19年中のものと思われますが、学徒出陣後のキャンパスの「日常」がわかる非常に珍しい写真です。

先日、元衆議院議長の綿貫民輔さん(昭和25年卒)の聞き取りをさせて頂きました。綿貫さんは昭和19年に藤原工大入学(専攻が廃止されたため、戦後経済学部に転部)で、まさに当時日吉に通っていた学生ですが、お話によると、当時の藤原工大生は、「制服は慶應と一緒でも、俺たちは藤原工大生だ」という強い自負があり、学風もかなり違ったとのこと。裸足で草履を履き、腰からは手ぬぐいを下げたバンカラ風をしていたとのことで、慶應生の制服の歴史に関心を持っている私は、不覚にも全く初耳で驚きました。

昨年、理工学部75年のパーティーで、大合唱が起こった惜春の譜(はたぐも)という藤原工大生の歌が、旧制高校の寮歌のような雰囲気を持っていることを思い出しました。その歌詞は以下のようなものです。

 惜春の譜(はたぐも)

  鰭雲(はたぐも)遠き野にたちて 
  春を送りて鳥啼けば
  帰らぬ生命惜しまれて
  君がまみ(瞳)にも涙あり
  嗚呼 青春の日は逝かんとす
   (※1番のみ。本当は4番まであります。)

アルバムの写真からわずかの後に、工学部の校舎は空襲で壊滅、戦後は仮校舎を転々としたあと小金井に落ち着き、日吉に戻ってくるまで20年以上を要しました。昭和46年の日吉(矢上)への移転を日吉「復帰」と呼んだことに苦難の歴史がにじみます。

2014年10月29日 (水)

棺に入れる予定のモノ

展覧会の会期が残りわずかとなりました。

たくさんのご遺族や当事者の方にお声かけいただきました。また、そっと来場された方も多かったことと思います。

実物資料のご提供もありました。順次ご紹介できればと思います。本日ご寄贈いただいた資料は戦死された肥田頴さん(予科1年で学徒出陣、19年10月フィリピンで戦死)の日の丸です。

日の丸は複数ご寄贈いただいておりますが、どれ一つとして同じものはありません。そして、戦死された方の日の丸は、実は初めてです。ご寄贈者は妹の村田久子さん。お話を伺うと、「エンディングノート」で、「私の棺に入れて」と書くつもりだったが、今回の展示に来て、大学で残してもらえれば、と持参して下さったとのこと。

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寄贈手続きの後、旧図書館のステンドグラスや塾監局前の平和来・還らざる学友の碑などにご案内すると、「兄もここ(三田)に来たでしょうね」と仰って、お帰りになりました。

「こういうものが残っていたが棺に入れて燃やしてしまった」という話を時々耳にします。「捨ててしまった」という話ともしょっちゅう出くわします。もしまだ存在するもので、大学に残すことが棺に入れるのと同様に、あるいは処分してしまうこと以上に、ご本人の希望に添う(と思われる)ようでしたら、力になれればと改めて思っております。

一つ一つはごくプライベートな記録と思われるモノでも、それをできるだけ幅広く、厚く残しておくことで、この時代が立体的に記録出来ると思われるからです。そして、そうしていくことで、この時代についてより深く多面的に考察することができるようにもなると思う次第です。

2014年9月17日 (水)

上原家資料の展示

10月に三田で開催する第2回の展示には、長野県安曇野市の上原家より多数の資料をお借りして展示します。

上原家は、5人きょうだいの内、男3人が全員慶應義塾に学び、3人とも戦死されています。福沢研究センターでは、2009年の福沢諭吉展の際、慶應義塾の歴史を展示するコーナーに、特攻で戦死した三男上原良司の出撃前夜の「所感」と題した手記をお借りして展示したことがあります。また同家には、3人が幼少の頃からの資料が膨大に残されていることから、2010年から3兄弟の資料の目録化の作業を続けています。

こういったご縁から、今回は再度「所感」をお借りするほか、良司が恋人へのメッセージを潜ませた遺本『クロォチェ』、実家に残した遺書、またそれらを隠してあった本棚や物入れもお借りしています。

E7re8023kas_r上原良司「所感」冒頭

E7re8163kags_r丸印の字を繋げて読むと恋文になる良司の遺本『クロォチェ』


また、従来ほとんど知られていないお兄さんたちに関しても同様に展示し、ある一家における悲劇をより立体感を持ってクローズアップします。長男上原良春は、責任感が強いまじめな人柄。写真が趣味で、学生生活、故郷の風景や人々をカメラに収めています。次男龍男は、絵が得意で子供たちを喜ばせるのが好きな優しい性格。几帳面で日常の記録がたくさん残っています。

No8731213_r_r上原良春撮影:神宮での慶應応援席

E7re7990ks_r上原龍男画「祝兄貴之御進級」

3人に共通なのは、文章でものを伝える習慣が身についていることです。これはご両親の影響が強いようですが、3人の祖父が上原三川と号した子規門下の俳人であることも影響しているかもしれません。こういった家庭環境をより丁寧に見直すことで、「所感」など、良司の数点の遺稿だけではわからない戦時下の青年の心情をより深く見つめ直すことができるものと考えます。

2014年8月17日 (日)

「(戦後70年を前に 伝える)出征学生を調査」読売新聞 2014年8月15日

戦時下の慶應義塾長だった小泉信三の次女随筆家小泉妙さんのインタビュー記事にあわせて、本プロジェクトのことが読売新聞に掲載されました。この記事で小泉妙さんは「小泉信三は息子の戦死を贖罪と受け止めた」と述べています。

本年10月7日(火)-10月31日(金)に開催予定の本プロジェクト主催の第2回の展示には、小泉妙さんより寄贈されたお兄さんの小泉信吉さんの最後の書簡等を展示予定です。

201408062028_0003_r_4

画像は小泉信吉最後の書簡の末尾部分(昭和17年10月15日)。戦死は22日。

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