カテゴリ「*都倉武之」の64件の記事 Feed

2016年3月 8日 (火)

大阪展会場準備中です

3月9日~17日にかけて慶應大阪シティキャンパスにて、当プロジェクト第4弾の展覧会が開催されます。7日より準備が開始されています。

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今回は出張展示とはいえ、資料の内容は三田での展示に見劣りしないものとなっており、出品数はおよそ100点です。三田では展示できなかった新資料も出ています。毎度、一見すると汚い紙切ればかりですが、見ごたえがあると自負しております。慶應関係でない方にも十分関心を持っていただけるように構成しましたので、ぜひお越しください。

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今回は大阪ならではの内容もご用意しております。

2016年1月15日 (金)

福沢研究センターが仮移転しました

長らくブログを更新できず失礼いたしました。

実は、前回の更新以降、福沢研究センターの入る図書館旧館が急遽改修工事に入ることが決定し、引っ越しの計画が急ピッチで立てられ、昨年末から先週にかけて移転作業を行いました。新しい事務室は南館(南校舎とは別の建物。ロースクールが入っている校舎)の4階です。一応3年後を目処に、旧図書館に復帰することになっております。住所、電話などの連絡先は変更ありません。

新しい場所は旧図書館より手狭で不便なことも多いのですが、これにめげず、プロジェクトは引き続き活動を続けて参りますので、ご支援のほどをよろしくお願い申し上げます。

Kimg1235_r30年ぶりにがらんどうになったセンター内の一角。

Kimg1468_r作業を恨めしそうに見守る手古奈サン(戦災の痕を留める大理石彫刻です)

Kimg1231_r_2新しい事務室の入る南館はこちら。

2015年11月10日 (火)

シンガポールの石

諸事情により長らく空いてしまいました。プロジェクトの活動が終わったわけではありません。まだ続々と資料のご提供を頂いております。

沈黙の間にご提供いただいた資料も、順次ご紹介したいと思います。こちらは、吉田兼次郎さん(学徒出陣、応召中の昭和19年の卒)の妹松本浅子さんよりご寄贈いただきました。お兄様が最後の休暇の際、浅子さん宛に遺された書です。

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兼次郎さんは浅子さんにとって自慢の兄で、一緒に歩いていると兼次郎さんのファン(片思い)の女性から「あんた何よ」といわれるほど、もてたとのこと。

Dscn6687_r_2前列中央がお兄さん、後列右端が浅子さんです。

兼次郎さんの戦死は昭和20年3月、シンガポール方面の洋上とされています。浅子さんは戦後シンガポールを訪れて兄を偲んだ際に日本人墓地で拾ってきた石を、この書と一緒にお持ち下さいました。その石を兄と思い、毎日体をさすっていたというのです。その何の変哲も無い石は、一部が平らでツルツルになっています。

Dscn6690_r_2(ツルツルの面)

このプロジェクトは学術調査であるわけですが、同時に人が人を想う気持ちというものを常に考えさせられます。資料一つ一つが今日に至る歴史を持ち、あるものはこのように公となり、あるものは今まさに失われていっているわけです。

2015年8月27日 (木)

医学部体育会弓道部日誌の寄贈

長らく空いてしまいました。無事展覧会が終了し、資料返却作業がようやく一段落しようというところです。たくさんのご来場を有り難うございました。

資料寄贈がぽつぽつと続いていますので、少しずつご紹介していきます。

今回は、医学部体育会弓道部から(全塾の体育会は「弓術部」ですが、医学部体育会は「弓道部」なのですね)。部の大掃除で保管資料から一冊だけ出てきた戦時中の日誌を、OBの方々ともご相談の上で7月にご寄贈いただきました。

昭和16年12月に始まるこの日誌には、日々の部の練習や試合のことが記されているのですが、時々軍医となった先輩が尋ねてきたり、葉書が挿んであったりします。

Dscn5989_r(挟み込まれた葉書と「久保中尉歓迎慰労会」の寄せ書き)

少々目についたところでは、昭和18年4月4日に「慶應義塾大学学部断髪令発布即日効力発生」とあり、これまで伸ばすことを許されていた髪を丸刈りにしなければならなくなったことへの言及があります。慶應ではこれ以前に予科で「断髪令」が出された際、予科生がストライキを行うのですが、さすがに戦争まっただ中にそんなことはできず、「おっ始めたら国賊と云はれるかも知れない世情である」と、淡々と記されています。

昭和18年10月18日には、「四谷三田懇親会」とあり、学徒出陣が決まり、学窓を離れる三田の弓術部員の壮行会を兼ねて試合が行われ、「35中対27中」で四谷(医学部)が勝ったとあり、次のページに見開きで、当日参加者と思われる署名の寄せ書きがあります。

Dscn5991_r(寄せ書きのページ)

寄せ書きには、医史学で有名な大鳥蘭三郎の名前が見えるほか、見覚えのある名前が1つ。三田の弓術部員として参加していたと思われる「古市敏雄」さんの名前です。この方は、昭和20年4月、第1 八幡護皇隊の一員として特攻出撃、戦死されています。今月、宇佐海軍航空隊の跡地を訪れたこともあって、宇佐で編成された八幡護皇隊の一員の名との出会いは、不思議なものです。

Dscn5992_r(右下部分の拡大。中央に古市さんの名前)

戦時下の日誌は突然終わりを告げます。「昭和十九年年末」の日付で「突然道場開けわたしの命令が来た」とあり、道場の材木を防空壕の資材にするとのことで、部員一同が憤慨したところ、破壊の件は取りやめになって「一同狂喜した」という記述で終わっています。次のページからは、滲みきった青インクで、何事もなかったように昭和23年5月18日の記載が始まります。

Dscn5993_r(左ページが昭和19年、右ページは昭和23年)

いわゆる「学徒出陣」がなかった医学部における「終戦」は、文系学部のそれとは、皮膚感覚が少々違ったのかもしれない、と考えてみたりしました。いずれにしても、当時の学生の手による貴重な資料が、また一つ加わりました。

2015年8月 5日 (水)

赤紙はなぜ残ったか

いよいよ明日で展覧会が終了となります。

今回は展覧会の開始後に、資料が新たに出てくるケースが相次ぎました。開幕後に追加した資料の一つが「赤紙」。三田の慶應仲通にお住まいの田村眞さん(塾員)のご所蔵品をお借りしました。

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お父様の田村眞太郎さんは商工学校を経て昭和6年経済学部卒。たびたび召集され、最後は昭和20年5月にフィリピンで戦死されています。

その方が昭和16年7月に召集されたときの「赤紙」が、ご本人の写真アルバムに貼られています。開幕後にお借りできたため、6月末から展示に加わりました。

赤紙といえば、通常召集部隊に出頭する際、持参するものなので、手元に残らないはずです。なぜ田村さんはアルバムに貼ることができたのでしょうか。アルバムに貼るために、家に忘れていったのでしょうか!?

謎は解けませんけれども、今回の展示では紙切れ一枚の「赤紙」から「死亡告知書」まで展示できたことは、貴重な機会になったと考えています。展覧会は終わりますが、引き続き資料情報を求めています!

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