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2015年4月21日 (火)

つるの屋じーじ(渡辺教義さん) 予科練と東京大空襲を語る

慶應義塾大学三田キャンパスにほど近い、大衆割烹料理屋「つるの屋」。毎晩、多くの塾生や塾員で賑わいます。今回は、ここのご主人、渡辺教義さん(通称じーじ)が、終戦直前の昭和20年に予科練を志願した体験について語って下さいました。

じーじは昭和5年生まれ。昭和20年に予科練の乙飛(海軍の乙種飛行予科練習生)を志願しました。その理由については「どうせ後で強制的に徴兵される。もっと歳がいってから厳しい境遇に晒されるのは嫌だった。もっと若いうちに飛び込んでしまった方が耐えられるんじゃないかと思った」と語りました。

細かいことは忘れてしまったとのことですが、よく覚えているのは、昭和20(1945)年8月1日に三重海軍航空隊で実施された最終試験(註)。じーじは、初めに靴を回収されたこと、海岸を裸足で走らされ足が痛かったこと、目を閉じたまま回転させられた後真っ直ぐ歩けるかを試されたこと、泊りがけで雑魚寝だったが隣の受験生と話すことは禁じられていたこと、そして食事の味噌汁があまりにも不味かったことなどを記憶しています。なぜ靴を奪われたのか今でも分かりませんが、逃がさないための工夫だったのではないかと想像しているそうです。
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結果は合格。当初8月15日に横須賀に入隊予定でしたが変更され、奈良海軍航空隊(天理)に8月31日に入隊を命ずる通知が来たと記憶しています(註)。しかしすぐに終戦となり、入隊は自然消滅。終戦を知ったときの気持ちについて伺うと、「何とも思わない、ただ、終わったんだなあって。戦争が終われば、そりゃあ軍隊もなくなるなあって」と、意外にも、素直に受け入れたそうです。

じーじの戦争体験は、予科練に留まりません。当時、向島に住んでいたため、昭和20年3月10日、東京大空襲で自宅が全焼しています。じーじの家は以前オーダーメイドの洋服店を営んでいたため、燃え上がる家から、洋服の生地を持ち出して逃げました。一緒に逃げた母は、川の水を飲んではいけないと聞いていたためか、水が満杯に入った大きなやかんを持っていたといいます。「何であんなものを、馬鹿みたいだよね」と振り返りますが、当時の必死さを伝えるエピソードです。
二人は地蔵坂方面に逃げて無事でしたが、反対の言問橋方面ではたくさんの人が亡くなりました。じーじはまだ寒かったはずのこの日のことを、一切の寒さを感じなかったと、振り返りました。家は全焼し、跡形もなくなりました。じーじは「何もなくなった、というだけ。しょうがない」と、そのときの思いを語りました。

さて、じーじは、つるの屋開業のいきさつについても語ってくださいました。最初は、赤坂見附で小さなお茶漬け屋を営業していたそうです。店名は「おりづる」。その後、その店は妻に任せてもう1店開くことになり、空いていた今の場所を見つけて次の店を始めました。これが「つるの屋」です。名前はもちろん「おりづる」に由来しています。しかし実は「つる屋」とする予定だったのですが、付近に同じ名前の呉服店があることを知り、敢えなく変更したとのことです。

今回の聞き取りで印象的だったのは、あらゆる局面での思いを振り返るとき、ほぼ一貫していた「何とも思わなかった」「特別な感情は抱かなかった」などのコメントです。当時はまだ15歳くらいで、何も考えていなかったのだと、じーじは話しました。しかし、私はそのことに、本来非日常であるはずの「戦争」という事象を、日常として受け入れざるを得なかった一人の少年の姿を見たような気もしたのです。(成田沙季)
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(註)じーじの予科練関係の日付は、資料での確認が十分できておりません。戦争最末期の予科練は大量採用で、しかも終戦を迎えたために、実態は不明点も多いようです。どなたかこれらの日付等を確認できる資料をご存知の方は、是非ともご教示下さい。

※今回は政治学科3年成田沙季さんが書いてくれました。今後もしばしば登場予定です。(都倉)

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