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2019年7月11日 (木)

大阪特別企画展Ⅱ「忘れられた戦争のカケラ」

当プロジェクトの収集もしくは所在確認を行った資料により大阪で特別企画展を開催します。

2016年3月に開催し好評を博した大阪での展示にの第2弾となる今回は「戦争の知られざる側面に光を当てる資料展示と研究成果の報告会」として、余り知られていない「慶應義塾と戦争」の接点を紹介します。

具体的には「オリンピックと戦争」「陸軍中野学校」「上原良司とその家族」「旧海軍日吉台地下壕」の4つをテーマとした資料展示と研究報告を行います。

どなたでもご覧頂けますので、ぜひお越し下さい。今後内容をこちらで紹介していきます。

チラシPDFはこちら→flyer2019.pdfをダウンロード(1.2MB)

■会期 2019年7月24日(水)~8月13日(火)10:00~17:30
入場無料 (閉館日 7/27(土)、7/28(日)、8/3(土)、8/10(土))

■主な展示品
慶應義塾出身オリンピアン関係資料(メダル、アルバム、戦没者関係資料)、慶應義塾出身の三兄弟 上原良春・龍男・良司の資料、陸軍中野学校出身者の資料(使用辞書、パスポート、撮影映像等)、旧海軍日吉台地下壕関係資料(遺物、内部映像)他 約50点の実物資料や映像、VR

■関連行事  <参加無料・予約不要>

①展示解説 7/24(水)、8/4(日)、8/13(火) 16:30~17:15  
②研究報告  8/4(日)12:00~16:00  

(1)旧海軍連合艦隊司令部地下壕VR展示
  慶應義塾大学文学部教授 安藤広道
(2)長野県安曇野氏・上原家資料調査を通してみる上原良治の虚像と実像
  日吉台地下壕保存の会副会長 亀岡敦子
(3)陸軍中野学校第一期生調査 ―映画『陸軍中野学校』と史実―
  慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所 都倉武之研究会
(4)慶應義塾出身オリンピアンの資料調査 ―水泳部を中心に―
  慶應義塾福沢研究センター調査員 横山寛

■会場・お問合せ先
慶應大阪シティキャンパス 大阪市北区大深町3-1 グランフロント大阪ナレッジキャピタル北館タワーC 10階
TEL 06-6359-5547     URL  http://www.korc.keio.ac.jp/
JR大阪駅、阪急・阪神・地下鉄各梅田駅より徒歩
アクセスはこちらをご参照下さい。

■主催 慶應義塾福澤研究センター、慶應大阪シティキャンパス

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2018年10月 1日 (月)

戦災で損傷した旧図書館のペンマーク現る

慶應義塾図書館旧館の免震と外壁の修復が進んでいます。そのような中で、戦争に関係する修復作業が開始されていますのでお伝えします。

この図書館の建物は関東大震災で大きく損傷して修復され、その後さらに米軍の空襲で書庫以外の本館内部と屋根を全焼してまた修復されました。戦後は長らく旧状と異なる屋根の形をしていましたが、これも1980年代に戻されました。開館当時よりも飾りが簡略化されている部分がありますが、かなり元に近い姿になっていました。

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ただ、一見して戦災前と旧状が異なっているのに、そのままとされている場所があります。それが正面上部にあるペンマークのエンブレム部分です(上の写真の円内)。ここは、大きな円の中にペンマークを中央に描いたエンブレムと、その周囲に4つの小さな円形を刻んだ飾り石がはめられています。戦災で建物内部が焼失した際、この部分は噴き出す炎に晒されて、表面が剥離してしまい、刻んだ形が見えなくなってしまいました。戦後この建物を修復した義塾関係者は、この建物が戦争を経た建物である痕跡をこの飾りの部分に留めることにし、ペンマークだけ修復して、四方の円形の修理は行わずそのままとしたのでした。

しかし今回の修理に伴う調査で、戦後修復された人造石によるペンマークがもろくなっており、剥落寸前と判明、取り外して改めて修復を行うことになりました。そこで戦後取り付けられていた人造石によるペンマークを取り外す作業が、9月28日午後2時より行われました。取り外されたペンマークの石がこちら。左下部分は、工事着工前にすでに剥離してなくなってしまっていました。

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作業前後のペンマーク部分の写真がこちら。(黒く見えるのは堆積したホコリ)

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この部分は、今回の工事でもペンマーク部分のみ修復し、周囲の円形の飾りは戦災の状態を残す予定となっています。これ以外にも、第一書庫の屋根裏より、空襲で損傷した鉄骨が発見され、そのまま保存することになりました。慶應義塾図書館は、戦争の歴史を伝える建物という側面も重視して工事が進められています。

2017年11月28日 (火)

「近代日本と慶應スポーツ」展開催中

慶應義塾三田キャンパス東館8階で「近代日本と慶應スポーツ」展が始まりました。

11月18日~12月13日(無休)、毎日10時~18時、どなたでもご覧頂けます。

戦争関係の展示も充実しています。こちらの画像はベルリンオリンピック(1936)に陸上短距離で出場した鈴木聞多選手(後に戦死)のユニフォームやスパイク。

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こちらの画像は、別当薫、山本英一郎、正力亨、百万ドルの内野陣宇野・大舘など多くの野球部関係者が名前をそろえた日の丸、回天特攻で戦死した塚本太郎の記念に戦後作られたレリーフ(現在は水泳部合宿所に常設)、ロサンゼルスオリンピック(1932)での水泳銀メダリストで硫黄島で戦死した河石達吾が妻へ贈った硫黄島からの手紙など。

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ベルリンオリンピックの有名な「友情のメダル」と、メダルを分け合った慶應生の大江季雄の卒業論文なども展示します。

2016年5月20日 (金)

1948年の「名誉の戦死」

資料の寄贈は続いています。

これまで戦没者名簿に記載されていなかった、宮崎克実さん(昭和9年経済学部卒)の軍歴及び戦死に関する記録類を、御子息でやはり慶應ご出身の弘実さんがご寄贈下さいました。

ご本人の自筆資料は一つもありませんが、厚生労働省、大分県(本籍地)、靖国神社等から得られた戦没に関する資料の写しを一括ご提供いただき、また戦友からの戦没状況を知らせる手紙や戦死公報等の原本もあわせてお寄せいただきました。一人の人間の死の記録がどのように残っているのかを考えるとき、余りに簡素で、また粗末であることに衝撃を受けます。

宮崎さんは昭和20年5月臨時召集で満洲で陸軍入隊、21年3月頃牡丹江省にて栄養失調のために戦病死。遺骨は戻らず、お墓に入っているのは「陸軍上等兵宮崎克実之霊」と記す木札のみとのこと。

戦死公報は、昭和23年に妻に届いたもので漢字ひらがな交じり、大分県知事の名義で届けられています。その公報に付けられた大分市長の添え状に「名誉の戦(病)死」の文字があります。行政の作成した文書なので、この言葉が戦後もこの時期にはまだ違和感なく生き残っていたのか、ただこの資料が例外なのかはわかりませんが、戦争終結による価値観の急転換の中でのエアポケットとしても、この言葉が強烈に頭にこびりつきます。

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2015年11月10日 (火)

シンガポールの石

諸事情により長らく空いてしまいました。プロジェクトの活動が終わったわけではありません。まだ続々と資料のご提供を頂いております。

沈黙の間にご提供いただいた資料も、順次ご紹介したいと思います。こちらは、吉田兼次郎さん(学徒出陣、応召中の昭和19年の卒)の妹松本浅子さんよりご寄贈いただきました。お兄様が最後の休暇の際、浅子さん宛に遺された書です。

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兼次郎さんは浅子さんにとって自慢の兄で、一緒に歩いていると兼次郎さんのファン(片思い)の女性から「あんた何よ」といわれるほど、もてたとのこと。

Dscn6687_r_2前列中央がお兄さん、後列右端が浅子さんです。

兼次郎さんの戦死は昭和20年3月、シンガポール方面の洋上とされています。浅子さんは戦後シンガポールを訪れて兄を偲んだ際に日本人墓地で拾ってきた石を、この書と一緒にお持ち下さいました。その石を兄と思い、毎日体をさすっていたというのです。その何の変哲も無い石は、一部が平らでツルツルになっています。

Dscn6690_r_2(ツルツルの面)

このプロジェクトは学術調査であるわけですが、同時に人が人を想う気持ちというものを常に考えさせられます。資料一つ一つが今日に至る歴史を持ち、あるものはこのように公となり、あるものは今まさに失われていっているわけです。

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