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2018年12月 7日 (金)

「慶應義塾と戦争」シンポジウム・研究報告を開催

学徒出陣75年に当たる2018年12月1日と翌2日、「慶應義塾と戦争」シンポジウム・研究報告を、三田キャンパス南校舎ホールで開催しました。

12月1日はプロジェクトの進捗状況の報告と討論、12月2日は慶應義塾に関連して行われている戦争関係の研究報告会の形式で、両日とも150名ほどの来場者があり、まずまずの盛況だったかと思います。

・今回の報告中では、特に特攻のことが多く言及されましたが、特攻のことばかりを調査しているわけではなく、むしろそれ以外のことをできるだけ調査しようとしています。引き続き情報をお待ちしています。

・1日目はアーカイブ構築、2日目はその資料を用いた研究という構成になっておりました。資料の研究活用、さらには教育活用は、ますます継続して検討していきたいと考えています。

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2017年11月28日 (火)

「近代日本と慶應スポーツ」展開催中

慶應義塾三田キャンパス東館8階で「近代日本と慶應スポーツ」展が始まりました。

11月18日~12月13日(無休)、毎日10時~18時、どなたでもご覧頂けます。

戦争関係の展示も充実しています。こちらの画像はベルリンオリンピック(1936)に陸上短距離で出場した鈴木聞多選手(後に戦死)のユニフォームやスパイク。

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こちらの画像は、別当薫、山本英一郎、正力亨、百万ドルの内野陣宇野・大舘など多くの野球部関係者が名前をそろえた日の丸、回天特攻で戦死した塚本太郎の記念に戦後作られたレリーフ(現在は水泳部合宿所に常設)、ロサンゼルスオリンピック(1932)での水泳銀メダリストで硫黄島で戦死した河石達吾が妻へ贈った硫黄島からの手紙など。

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ベルリンオリンピックの有名な「友情のメダル」と、メダルを分け合った慶應生の大江季雄の卒業論文なども展示します。

2016年12月 8日 (木)

旧図書館前のヒマラヤスギ伐採

慶應義塾図書館旧館(通称:旧図書館)の玄関脇に生えていたヒマラヤスギが昨日と今日で完全に伐採されました。もう1本右脇の文学の丘の手前に生えているものも間もなく伐採されると聞いています。旧図書館の免震工事に向けたやむを得ない判断と聞いています。残念ではありますが、移植も困難といわざるを得ない立地と大きさです。下の画像はほぼ同時刻のbefore after。

1481162709938↑12月8日午前10時30分      ↓12月6日午前10時1481162877438

これらのヒマラヤスギは、明治45年(1912年)の開館時に植えられたものではなく、関東大震災後に大規模な修繕を行い、書庫も増築した際、植えられたもののようです。昭和2年に書庫を増築、昭和3年に修繕が完了した時の写真には写っていませんが、昭和9年の写真には写っています。

Pf006997昭和3年大規模修繕完了時。左端の三角屋根の書庫が前年に増築された。

Pf006998昭和9年の卒業アルバムより。ずらりとヒマラヤスギが植えられているようにみえる。なお、昭和7年の卒アルにすでにヒマラヤスギが写っています。

この頃、校舎の脇にヒマラヤスギを植えることが多く行われていて、日吉の慶應高校校舎前にもこの頃植えられたものがありますし、信濃町も北里図書館や病院別館の跡地(現3号館)にも生えています。

なお、当初は反対側にも数本生えていたようですが(玄関を挿んで2本ずつ?)、その後枯れたのか伐採されたのか、昭和14年の写真にはもうないようです。旧図書館が空襲で被災した際もこのヒマラヤスギは生き残ります。この頃は玄関脇に2本写っています。戦後のある時期にもう一本は枯れてしまったのでしょうか。

Pf010751_2空襲から数年。雨ざらしの焼け跡のころ。右に2本生えている。

この木は1930年前後から90年近くこのキャンパスを見守ってきたことになります。伐採された木は一部を何らかの形で再利用することを検討中とのことです。

2016年7月 1日 (金)

資料展示が始まりました。

三田の慶應義塾図書館新館1階展示室で、「慶應義塾福沢研究センター所蔵 福沢諭吉・慶應義塾史新収資料展」が始まりました。会期は7月1日~30日(日祝休館)です。

今回はこれまでのような戦争一色の展示では無く、福沢諭吉自筆資料や、福沢著作の版木、その他慶應義塾史に関連する資料も展示していますが、戦争関係が3分の1以上を占めています。また、これまではディスプレイの専門業者にお手伝いいただいていましたが、今回は完全に学生・院生と完成させた展示会場です。

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展示会場の当プロジェクトのコーナーでひときわ目立つ日章旗は、これまでの展示に毎度ありましたが、欠かせなかった塾長小泉信三の署名がありません。そのかわり別のある人物の署名が一つだけあります。かなりの珍品と自負しています。さあ、誰の署名でしょうか。

そしてもう一つ目立つのが、グーテンベルク聖書用の展示ケースに鎮座まします、「シャコ貝」です。この巨大な貝殻は、昭和15年7月の野球部ハワイ遠征の際に持ち帰られ、予科教員の亀井常蔵氏に贈られたもの。真珠湾攻撃の1年前でもこういった交流があったことは少々驚きです。

ハワイでは日系人チームや現地人チームなどと盛んに試合を行ったようですが、到着後最初の試合は米海軍とのものだったようです。翌日の読売新聞の見出しが面白いです。「慶應、米海軍を破る」。この20キロ以上ある貝殻を、持ち帰った野球部員も野球部員ですが(親しい先生への土産というか冗談だったのでしょう)、それを70年間保管していた方も保管していた方です。真珠湾攻撃前夜の日布交流を伝えるこの遺物は、法学部教授亀井源太郎先生から寄贈されました。

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その他には福沢諭吉関係の資料も充実して見応えがあると思います。どうぞ足をお運び下さい。

2016年5月20日 (金)

1948年の「名誉の戦死」

資料の寄贈は続いています。

これまで戦没者名簿に記載されていなかった、宮崎克実さん(昭和9年経済学部卒)の軍歴及び戦死に関する記録類を、御子息でやはり慶應ご出身の弘実さんがご寄贈下さいました。

ご本人の自筆資料は一つもありませんが、厚生労働省、大分県(本籍地)、靖国神社等から得られた戦没に関する資料の写しを一括ご提供いただき、また戦友からの戦没状況を知らせる手紙や戦死公報等の原本もあわせてお寄せいただきました。一人の人間の死の記録がどのように残っているのかを考えるとき、余りに簡素で、また粗末であることに衝撃を受けます。

宮崎さんは昭和20年5月臨時召集で満洲で陸軍入隊、21年3月頃牡丹江省にて栄養失調のために戦病死。遺骨は戻らず、お墓に入っているのは「陸軍上等兵宮崎克実之霊」と記す木札のみとのこと。

戦死公報は、昭和23年に妻に届いたもので漢字ひらがな交じり、大分県知事の名義で届けられています。その公報に付けられた大分市長の添え状に「名誉の戦(病)死」の文字があります。行政の作成した文書なので、この言葉が戦後もこの時期にはまだ違和感なく生き残っていたのか、ただこの資料が例外なのかはわかりませんが、戦争終結による価値観の急転換の中でのエアポケットとしても、この言葉が強烈に頭にこびりつきます。

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