2016年12月 8日 (木)

旧図書館前のヒマラヤスギ伐採

慶應義塾図書館旧館(通称:旧図書館)の玄関脇に生えていたヒマラヤスギが昨日と今日で完全に伐採されました。もう1本右脇の文学の丘の手前に生えているものも間もなく伐採されると聞いています。旧図書館の免震工事に向けたやむを得ない判断と聞いています。残念ではありますが、移植も困難といわざるを得ない立地と大きさです。下の画像はほぼ同時刻のbefore after。

1481162709938↑12月8日午前10時30分      ↓12月6日午前10時1481162877438

これらのヒマラヤスギは、明治45年(1912年)の開館時に植えられたものではなく、関東大震災後に大規模な修繕を行い、書庫も増築した際、植えられたもののようです。昭和2年に書庫を増築、昭和3年に修繕が完了した時の写真には写っていませんが、昭和9年の写真には写っています。

Pf006997昭和3年大規模修繕完了時。左端の三角屋根の書庫が前年に増築された。

Pf006998昭和9年の卒業アルバムより。ずらりとヒマラヤスギが植えられているようにみえる。なお、昭和7年の卒アルにすでにヒマラヤスギが写っています。

この頃、校舎の脇にヒマラヤスギを植えることが多く行われていて、日吉の慶應高校校舎前にもこの頃植えられたものがありますし、信濃町も北里図書館や病院別館の跡地(現3号館)にも生えています。

なお、当初は反対側にも数本生えていたようですが(玄関を挿んで2本ずつ?)、その後枯れたのか伐採されたのか、昭和14年の写真にはもうないようです。旧図書館が空襲で被災した際もこのヒマラヤスギは生き残ります。この頃は玄関脇に2本写っています。戦後のある時期にもう一本は枯れてしまったのでしょうか。

Pf010751_2空襲から数年。雨ざらしの焼け跡のころ。右に2本生えている。

この木は1930年前後から90年近くこのキャンパスを見守ってきたことになります。伐採された木は一部を何らかの形で再利用することを検討中とのことです。

2016年7月 6日 (水)

ギャラリートークの予定

「慶應義塾福沢研究センター所蔵 福沢諭吉・慶應義塾史新収資料展」にてギャラリートークを行います。

2016年7月13日(水)14時40分から(30分程度)
2016年7月22日(金)14時40分から(30分程度)

いずれも当日、三田の図書館新館展示室に直接お集まり下さい。

Fmc___2

2016年7月 1日 (金)

資料展示が始まりました。

三田の慶應義塾図書館新館1階展示室で、「慶應義塾福沢研究センター所蔵 福沢諭吉・慶應義塾史新収資料展」が始まりました。会期は7月1日~30日(日祝休館)です。

今回はこれまでのような戦争一色の展示では無く、福沢諭吉自筆資料や、福沢著作の版木、その他慶應義塾史に関連する資料も展示していますが、戦争関係が3分の1以上を占めています。また、これまではディスプレイの専門業者にお手伝いいただいていましたが、今回は完全に学生・院生と完成させた展示会場です。

Kimg2774_r

展示会場の当プロジェクトのコーナーでひときわ目立つ日章旗は、これまでの展示に毎度ありましたが、欠かせなかった塾長小泉信三の署名がありません。そのかわり別のある人物の署名が一つだけあります。かなりの珍品と自負しています。さあ、誰の署名でしょうか。

そしてもう一つ目立つのが、グーテンベルク聖書用の展示ケースに鎮座まします、「シャコ貝」です。この巨大な貝殻は、昭和15年7月の野球部ハワイ遠征の際に持ち帰られ、予科教員の亀井常蔵氏に贈られたもの。真珠湾攻撃の1年前でもこういった交流があったことは少々驚きです。

ハワイでは日系人チームや現地人チームなどと盛んに試合を行ったようですが、到着後最初の試合は米海軍とのものだったようです。翌日の読売新聞の見出しが面白いです。「慶應、米海軍を破る」。この20キロ以上ある貝殻を、持ち帰った野球部員も野球部員ですが(親しい先生への土産というか冗談だったのでしょう)、それを70年間保管していた方も保管していた方です。真珠湾攻撃前夜の日布交流を伝えるこの遺物は、法学部教授亀井源太郎先生から寄贈されました。

F8vt1804_r


その他には福沢諭吉関係の資料も充実して見応えがあると思います。どうぞ足をお運び下さい。

2016年5月20日 (金)

1948年の「名誉の戦死」

資料の寄贈は続いています。

これまで戦没者名簿に記載されていなかった、宮崎克実さん(昭和9年経済学部卒)の軍歴及び戦死に関する記録類を、御子息でやはり慶應ご出身の弘実さんがご寄贈下さいました。

ご本人の自筆資料は一つもありませんが、厚生労働省、大分県(本籍地)、靖国神社等から得られた戦没に関する資料の写しを一括ご提供いただき、また戦友からの戦没状況を知らせる手紙や戦死公報等の原本もあわせてお寄せいただきました。一人の人間の死の記録がどのように残っているのかを考えるとき、余りに簡素で、また粗末であることに衝撃を受けます。

宮崎さんは昭和20年5月臨時召集で満洲で陸軍入隊、21年3月頃牡丹江省にて栄養失調のために戦病死。遺骨は戻らず、お墓に入っているのは「陸軍上等兵宮崎克実之霊」と記す木札のみとのこと。

戦死公報は、昭和23年に妻に届いたもので漢字ひらがな交じり、大分県知事の名義で届けられています。その公報に付けられた大分市長の添え状に「名誉の戦(病)死」の文字があります。行政の作成した文書なので、この言葉が戦後もこの時期にはまだ違和感なく生き残っていたのか、ただこの資料が例外なのかはわかりませんが、戦争終結による価値観の急転換の中でのエアポケットとしても、この言葉が強烈に頭にこびりつきます。

Kimg2202_r_2

Ciy6i8puyaa95sv_r

2016年3月10日 (木)

慶應大阪シティキャンパスへのアクセス

慶應大阪シティキャンパス(KOCC)は、グランフロント大阪北館タワーC・10階ですが、とってもわかりにくいです!ポスター等も掲示できないことから、案内無しにはなかなかたどり着くことができません。私なりの解説をしてみたいと思います。

1)こちらJR大阪駅から直結のグランフロント大阪です。まずはとにかく「グランフロント大阪」を目指します。

1457585199980_2

2)グランフロント大阪に入ったら「北館」の1階を目指します。

1457585132977

3)北館の1階はこんなところ。吹き抜けのある開放的な空間です。

14575851412254)北館1階の奥に「タワーC」のエレベーターへ通じる扉があります(タリーズコーヒーの奥です)。警備員さんがいて入りにくいですが、ひるんではいけません。迷わず進みます。

1457585149631_25)エレベーターは左右に分かれていますが、右側のエレベーターです。目指す10階は右側のエレベーターでしかたどり着けませんのでご注意ください!

14575851577586)北館タワーCの10階にたどりついたら、あとはおわかりになると思います。廊下に沿って歩いていけば、最初に現れるのが「慶應大阪シティキャンパス」です。

1457586272697

展覧会

facebook

運営組織