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2014年10月15日 (水)

体育会水泳部のこと

今回の展示では、水泳部のことを少し深く取り上げています。登場する重要人物が、この女性です。

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三田綱町の男爵内海勝二邸内にあった水泳部合宿所の寮母・吉田千代さんです。この方は、昭和8年から寮母を務め合宿所の「おばさん」と慕われ、箒を手に部員の生活指導にも当たったそうです。戦後は合宿所の「ばあさん」(またはババア←水泳部100年史に書いてあります)として昭和43年まで寮母を務め、その様子は「若人の歌」(1951)という東宝映画のモデルにもなったとのこと。昭和53年、79歳で死去。身寄りがなく、最後は水泳部のOBの方々が色々とお世話をされたとのことで、水泳部100年史によりますと、年齢はOBの話を総合した結果の推定とのことです。

水泳部の合宿所からも戦歿者が出ました。そのうちの2人を今回の展示で取り上げます。一人は片山崇さんで、海軍の特攻で亡くなっています。この方には婚約者がいらっしゃり、その方から資料をお借りしました。もう一人は上藤憲三さん。この方の資料はわだつみのこえ記念館に保存されていることが分かり、今回お借りして展示させていただきました。

吉田千代さんは、合宿所から4人の「子供」を一度に失った、と嘆く手紙を上藤さんの遺族に出しています。その最後は


涙で何にも書けません。二度と御逢ひ出来ない、
上藤さま、上藤さま、上藤さま さよおなら
        悲しい、悲しい  合宿ノ小母さん


と締めくくられています。(読みやすく表記を一部修正しました)

このほかにも続々と復員してきた水泳部の部員が、千代さんから上藤さんの訃報を耳にしたときの反応が生々しく記されています。(個人名を消さずに掲載させていただきます)


…和歌山より妙中と云う学生さんが復員になったと逢ひにきまして、八日の夜帰りますと、柴山太郎と云う学生さんが逢ひに来まして、十三日朝一番で帰りましたが、柴山太郎と云う学生さんを、上藤様はとても可愛がっており、戦地へ立つと云うて別れに参りました時、合宿(所)で太郎さんと一所にやすみました。色々な事を話して別れたが、上藤さんは死んだのか、死んだのかと、いくたびも、いくたびも泣き乍ら申しました。


例えばこれらの手紙。一つが単独で残っているだけでは、単にご遺族の思い出や悲しみを想起する個人的なモノでしかないかもしれません。事情のわからない方から見れば、自分に無関係のゴミになってしまうことでしょう。しかしそれをその時代状況の中で丁寧に記録し、また近接する手紙や写真とともにまとめて保管しておくことによって、この時代をくっきりと後世に伝えていく重要な歴史的資料になっていくと考えます。このプロジェクトであくまで慶應にこだわっていること、細かい個人的なエピソードや具体的な情報を重視しているのはそのためです。同じ学校だから掘り起こせること、伝えられることがあるのではないかと考えています。

ここで紹介した水泳部の資料は第2会場で展示されています。

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