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2015年7月 3日 (金)

資料が繋がるとき ―今西太一さんのこと

今回の展示は、特に第1会場が「地味ね」と、ある人に言われました。確かに今回は紙資料が多いかもしれません。その「地味」な資料の一つに、大岡明男さんの葉書があります。この葉書1枚の展示だけでは語り尽くせないことを少しご紹介します。

Dscn4638_r(第1会場です。ちょっとだけ展示替えしました)

大学と戦争という分野に先鞭をつけられた白井厚先生に、一昨年来、調査資料のご寄贈を頂いております。郵送でお届けいただいた資料を開梱し、ぺらぺらとめくっていたときのこと。見覚えのある名前の手紙に気づきました。差出人「大岡明男」さんとありました。大岡さんは、私がお手伝いさせていただいている慶應の書道会のOBで、昭和18年経済学部卒の大先輩。あるパーティーで一度お目にかかりシベリア抑留の体験者であると知り、聞き取りをさせて頂きたいと思っていたため、名前をよく記憶していました。 その手紙は、経済学部生時代の同窓で戦歿された「今西太一」さんが戦歿者として記録されているかを気遣い、白井先生に問い合わせたもので、1991年の日付でした。

今西さんの名前もまた、私にはとても印象深く記憶されていました。少し前に広島県の大津島にある回天記念館を訪問し、慶應出身者の資料の調査を行っていたからです。今西さんは、いわゆる人間魚雷・回天の搭乗員として昭和19年11月20日にウルシー方面で亡くなられているのです。

大岡さんと今西さんが繋がったことは驚きで、すぐに大岡さんに連絡を取り、聞き取りを行いました。昨年の初夏のことです。 大岡さんには、シベリア抑留のことと共に、今西さんのことを詳しく伺いました。お二人は、共に慶應の大学予科(日吉)出身ではなく、経済学部(三田)からの編入学者だったため、お互いに良く知る仲であったようです。いわばマイノリティー同士。だからこそ、戦歿しても忘れられているのではないかと、気にされたのでしょう。

今西さんは京都の出身で荻窪に下宿、大岡さんは自宅が荻窪。そのため荻窪で顔を合わせたこともあったこと、藤林敬三先生の研究会でも一緒であったと思う、ともおっしゃいました。そして、見せて下さったのが、今回展示している1枚の葉書です。それは昭和20年の初めのもので、当時大陸にいた大岡さんが、今西さんの特攻出撃を知り、親への葉書でそのことに言及しています。

「研究会での学友は神潮特攻隊の一員として南海のウルシー島に特殊潜航艇に乗って敵艦に体当りした事を新聞によって知り、強き感動を受けた。自分も皇国の為に潔く散る日に備へて訓練修養に努めてゐる。」

このように記されています。今西さんの出撃は新聞で知ったそうですが、その新聞記事には次の今西さんの辞世が出ていたとのこと。

「一億の大和をみなも丈夫(ますらお)も 一日ぐっすりねかせたい」

力んだ言葉が並ぶ記事のなかで、気負いのない淡々とした彼らしい言葉として強く印象に残り、今でもそらんじられるとお話し下さいました。

その聞き取りから、半年以上が過ぎました。今年の春、藤林敬三先生のご遺族よりお申し出を受けて、先生の旧蔵資料を受け取りに鎌倉の旧宅にお邪魔させて頂く機会がありました。今では使われていない自宅のあちこちから、戦前戦中の資料が出てきました。その一つが、今回第2会場に展示している、勤労動員に関する手帳です。その中には、慶應に委託されていた上智大学の学生に関する記述があり、その箇所を展示しています。

段ボール10数箱に資料を詰めて、そろそろ引き揚げようかというときです。最後に探索したエリアで、藤林先生がゼミの学生から送られたらしい色紙が数枚出てきました。多くは戦後のものでしたが、1枚ヨレヨレになった古びた1枚がありました。それを見て、たぶん声を上げたと思います。資料が繋がった瞬間でした。そこには特徴のある端正な字で「今西太一」と署名がありました。そしてその左隣には、草書で「大岡明男」の署名がありました。

資料を収集していくと、このように、人と人、資料と資料が、不思議と繋がっていくことがあります。それが歴史調査の醍醐味でもあります。

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(これがその色紙です)

先週、大岡さんが会場に足を運んで下さいました。なにやら大きな紙を丸めてご持参で、それを広げると、今西さんの辞世が出ている新聞のコピーでした。図書館で縮刷版をめくられたようです。そして、そこには確かに、上記の歌が記されていました。

色紙は今回展示していませんが、「地味」な展示物一つ一つに、このようなサイドストーリーがあります。(都倉)

2015年6月11日 (木)

クリスチャンの特攻隊員

慶應出身・クリスチャン・特攻隊員という方がいらっしゃいました。本川讓冶さんです。

この方は、いわゆる学徒出陣(昭和18年12月)の少し前に、海軍飛行予備学生(13期)を志願して海軍に入隊、昭和20年5月11日に特攻出撃で戦死されています。

遺稿集『雲ながるる果てに』に最後の手紙が掲載されており、その中で特攻機に聖書と讃美歌集を持っていくと書き残しています。

今回の展示に是非ともこの方を紹介したいと思い、実物資料を探していたのですが、どうしても見つからず、やむを得ず(この展覧会シリーズでは写真以外の資料は、実物しか展示しない方針でしたが)例外的に写真パネルで、自筆の色紙を展示致しました。

ところが、展示作業のさなか、ご遺族との連絡が取れ、実物を借用することが出来ました。上記の遺稿集に出ている手紙は、依然所在がわかりませんが、別の手紙と色紙を展示予定です。準備が間に合わず、開幕にはあわせられませんでしたが、
7月1日からは必ず展示に加わります。

既にご覧頂いた方も、宜しければ本川さんの資料の追加をご確認下さい。ちなみにこの方は、3年前に亡くなられた生田正輝先生(マスコミ論)の予科時代のクラスメイトです。(都倉)
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2015年4月 1日 (水)

真珠湾攻撃に参加した佐々木正五さん

慶大医学部名誉教授で、東海大学医学部初代学部長を務められた佐々木正五さん(昭和16年医学部卒、昨年11月逝去)の遺品をご遺族からご寄贈いただきました。

佐々木さんは、伊号第四潜水艦の軍医長として、真珠湾攻撃に参加。ご寄贈いただいた資料には、そのときの使用品や日誌なども含まれます。

日誌は、慶應医学部時代の「法医学」の授業ノートのあまりを使ったらしく、表紙には塾旗やペンマークのデザインがあります。 Dscn4000_r

中には酸素濃度などの記録等の淡々とした記述があります。交信が遮断されているので戦闘の詳細はわからないが、今頃出動している機動部隊の「成功ヲ祈ルノミ」とあります。伊4は周辺海域での監視を行っていましたが、一度は米艦船に包囲され、危うく撃沈されそうになったようです。このことについては、『三田評論』2011年12月号掲載のご本人執筆の興味深い記事があります。 Dscn4001_r

目を引くのは佐々木さんのお父様が息子の記念品としてとってあった軍装品です。正五さんが真珠湾攻撃の際つけていた鉢巻と軍帽の前章(帽子の前面についているマーク)を丁寧に和紙で包み、赤い紐をかけて保管してあります。帽子の前章は、潮をかぶりさびている、とあり、実際酷く変色しています。 Dscn4002_r

これらの資料は、次回の展覧会において、【特別出品】として展示予定です。展覧会についてはまもなく告知させて頂きますが、6月1日~8月6日の期間で図書館展示室にて開催を予定しており、そのうち7月1日~31日は、アート・スペースとの同時開催となります。

2015年2月18日 (水)

戦争末期の藤原工業大学と、その学風

理工学部の前身である藤原工業大学は昭和19年の夏に慶應義塾大学工学部となりましたが、もともと慶應に寄附される予定であったため、昭和14年の創立の当初から慶應のキャンパスの中に校舎が作られました。日吉駅から見て銀杏並木の左側、現在大学の校舎が建ち並んでいる敷地です。

その藤原工業大学に、昭和18年末に就職したという山本弥生さん(旧姓斎藤)のアルバムを寄贈して頂きました。そのアルバムからいくつか写真を。

Fmc001_rこの写真は、学生または院生(特別研究生)と女性職員の集合写真のようですが、まるで戦争末期の雰囲気がありません。しかし壁に貼り出されている(?)文字を見ると、「イザヤコソ撃チテシ止マン」などと勇ましいことが書いてあり、それとのギャップが興味深く思われます。後列左から2人目は久野洋さん(後の塾長)ではないかと思われます。

Fmc002_rこの写真は、昼休みのバレーボールか何かでしょうか。背後は藤原工大予科の木造校舎(現在の塾生会館の辺り)で、女性たちが立っている場所は当時のグラウンド。現在の食堂棟や来往舎の辺りです。

Fmc003_rこれはバレー(?)の集合写真の隣のページに記入されている言葉です。キャプションではないようです。当時からキャンパスの裏の谷を「まむし谷」と呼んでいることがわかります。そちらではバスケットをしています(現在慶應高校のバスケ・バレーコートがある辺りのことでしょう)。先生が講義だからと、10時半からバスケとは!

これらの写真は昭和19年中のものと思われますが、学徒出陣後のキャンパスの「日常」がわかる非常に珍しい写真です。

先日、元衆議院議長の綿貫民輔さん(昭和25年卒)の聞き取りをさせて頂きました。綿貫さんは昭和19年に藤原工大入学(専攻が廃止されたため、戦後経済学部に転部)で、まさに当時日吉に通っていた学生ですが、お話によると、当時の藤原工大生は、「制服は慶應と一緒でも、俺たちは藤原工大生だ」という強い自負があり、学風もかなり違ったとのこと。裸足で草履を履き、腰からは手ぬぐいを下げたバンカラ風をしていたとのことで、慶應生の制服の歴史に関心を持っている私は、不覚にも全く初耳で驚きました。

昨年、理工学部75年のパーティーで、大合唱が起こった惜春の譜(はたぐも)という藤原工大生の歌が、旧制高校の寮歌のような雰囲気を持っていることを思い出しました。その歌詞は以下のようなものです。

 惜春の譜(はたぐも)

  鰭雲(はたぐも)遠き野にたちて 
  春を送りて鳥啼けば
  帰らぬ生命惜しまれて
  君がまみ(瞳)にも涙あり
  嗚呼 青春の日は逝かんとす
   (※1番のみ。本当は4番まであります。)

アルバムの写真からわずかの後に、工学部の校舎は空襲で壊滅、戦後は仮校舎を転々としたあと小金井に落ち着き、日吉に戻ってくるまで20年以上を要しました。昭和46年の日吉(矢上)への移転を日吉「復帰」と呼んだことに苦難の歴史がにじみます。

2014年10月29日 (水)

棺に入れる予定のモノ

展覧会の会期が残りわずかとなりました。

たくさんのご遺族や当事者の方にお声かけいただきました。また、そっと来場された方も多かったことと思います。

実物資料のご提供もありました。順次ご紹介できればと思います。本日ご寄贈いただいた資料は戦死された肥田頴さん(予科1年で学徒出陣、19年10月フィリピンで戦死)の日の丸です。

日の丸は複数ご寄贈いただいておりますが、どれ一つとして同じものはありません。そして、戦死された方の日の丸は、実は初めてです。ご寄贈者は妹の村田久子さん。お話を伺うと、「エンディングノート」で、「私の棺に入れて」と書くつもりだったが、今回の展示に来て、大学で残してもらえれば、と持参して下さったとのこと。

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寄贈手続きの後、旧図書館のステンドグラスや塾監局前の平和来・還らざる学友の碑などにご案内すると、「兄もここ(三田)に来たでしょうね」と仰って、お帰りになりました。

「こういうものが残っていたが棺に入れて燃やしてしまった」という話を時々耳にします。「捨ててしまった」という話ともしょっちゅう出くわします。もしまだ存在するもので、大学に残すことが棺に入れるのと同様に、あるいは処分してしまうこと以上に、ご本人の希望に添う(と思われる)ようでしたら、力になれればと改めて思っております。

一つ一つはごくプライベートな記録と思われるモノでも、それをできるだけ幅広く、厚く残しておくことで、この時代が立体的に記録出来ると思われるからです。そして、そうしていくことで、この時代についてより深く多面的に考察することができるようにもなると思う次第です。

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