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2015年8月27日 (木)

医学部体育会弓道部日誌の寄贈

長らく空いてしまいました。無事展覧会が終了し、資料返却作業がようやく一段落しようというところです。たくさんのご来場を有り難うございました。

資料寄贈がぽつぽつと続いていますので、少しずつご紹介していきます。

今回は、医学部体育会弓道部から(全塾の体育会は「弓術部」ですが、医学部体育会は「弓道部」なのですね)。部の大掃除で保管資料から一冊だけ出てきた戦時中の日誌を、OBの方々ともご相談の上で7月にご寄贈いただきました。

昭和16年12月に始まるこの日誌には、日々の部の練習や試合のことが記されているのですが、時々軍医となった先輩が尋ねてきたり、葉書が挿んであったりします。

Dscn5989_r(挟み込まれた葉書と「久保中尉歓迎慰労会」の寄せ書き)

少々目についたところでは、昭和18年4月4日に「慶應義塾大学学部断髪令発布即日効力発生」とあり、これまで伸ばすことを許されていた髪を丸刈りにしなければならなくなったことへの言及があります。慶應ではこれ以前に予科で「断髪令」が出された際、予科生がストライキを行うのですが、さすがに戦争まっただ中にそんなことはできず、「おっ始めたら国賊と云はれるかも知れない世情である」と、淡々と記されています。

昭和18年10月18日には、「四谷三田懇親会」とあり、学徒出陣が決まり、学窓を離れる三田の弓術部員の壮行会を兼ねて試合が行われ、「35中対27中」で四谷(医学部)が勝ったとあり、次のページに見開きで、当日参加者と思われる署名の寄せ書きがあります。

Dscn5991_r(寄せ書きのページ)

寄せ書きには、医史学で有名な大鳥蘭三郎の名前が見えるほか、見覚えのある名前が1つ。三田の弓術部員として参加していたと思われる「古市敏雄」さんの名前です。この方は、昭和20年4月、第1 八幡護皇隊の一員として特攻出撃、戦死されています。今月、宇佐海軍航空隊の跡地を訪れたこともあって、宇佐で編成された八幡護皇隊の一員の名との出会いは、不思議なものです。

Dscn5992_r(右下部分の拡大。中央に古市さんの名前)

戦時下の日誌は突然終わりを告げます。「昭和十九年年末」の日付で「突然道場開けわたしの命令が来た」とあり、道場の材木を防空壕の資材にするとのことで、部員一同が憤慨したところ、破壊の件は取りやめになって「一同狂喜した」という記述で終わっています。次のページからは、滲みきった青インクで、何事もなかったように昭和23年5月18日の記載が始まります。

Dscn5993_r(左ページが昭和19年、右ページは昭和23年)

いわゆる「学徒出陣」がなかった医学部における「終戦」は、文系学部のそれとは、皮膚感覚が少々違ったのかもしれない、と考えてみたりしました。いずれにしても、当時の学生の手による貴重な資料が、また一つ加わりました。

2015年8月 5日 (水)

赤紙はなぜ残ったか

いよいよ明日で展覧会が終了となります。

今回は展覧会の開始後に、資料が新たに出てくるケースが相次ぎました。開幕後に追加した資料の一つが「赤紙」。三田の慶應仲通にお住まいの田村眞さん(塾員)のご所蔵品をお借りしました。

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お父様の田村眞太郎さんは商工学校を経て昭和6年経済学部卒。たびたび召集され、最後は昭和20年5月にフィリピンで戦死されています。

その方が昭和16年7月に召集されたときの「赤紙」が、ご本人の写真アルバムに貼られています。開幕後にお借りできたため、6月末から展示に加わりました。

赤紙といえば、通常召集部隊に出頭する際、持参するものなので、手元に残らないはずです。なぜ田村さんはアルバムに貼ることができたのでしょうか。アルバムに貼るために、家に忘れていったのでしょうか!?

謎は解けませんけれども、今回の展示では紙切れ一枚の「赤紙」から「死亡告知書」まで展示できたことは、貴重な機会になったと考えています。展覧会は終わりますが、引き続き資料情報を求めています!

2015年7月 8日 (水)

シベリア帰りの「指ぬき」

展覧会開始後に資料のご寄贈が続いております。

こちらは、「指ぬき」です。不揃いなブツブツでおわかりの通り、自作のもの。シベリア抑留で裁縫工として働かされた際に使用したものだそうです。赤塚美希子様よりお父様の故深柄光勇さん(昭和23年経済卒)の使用品としてご寄贈いただきました。

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これがシベリア時代のものとは知らなかったそうですが、昭和60年に私家版として作ってあった自分史の中に「アルミの指ぬきは、今も抑留時代の記念品として保存している」と書かれていることに気づいて探したところ、これが見つかったとのことでした。

深柄さんは短歌がお好きだったそうで、自分史にはこの指ぬきについても歌われています。

  浴場の裁縫工となり日々をシャツ縫うアルミの指ぬき用いて

  修繕を待つシャツ数多前に置き素早く進めぬ針の運びを

  修繕の布縫う針のスピードも日増しに早し裁縫工われ

シベリア抑留の遺物は、大谷正春さんからご寄贈いただいた木製のスプーンに続いて2つめとなりました。

2015年7月 3日 (金)

資料が繋がるとき ―今西太一さんのこと

今回の展示は、特に第1会場が「地味ね」と、ある人に言われました。確かに今回は紙資料が多いかもしれません。その「地味」な資料の一つに、大岡明男さんの葉書があります。この葉書1枚の展示だけでは語り尽くせないことを少しご紹介します。

Dscn4638_r(第1会場です。ちょっとだけ展示替えしました)

大学と戦争という分野に先鞭をつけられた白井厚先生に、一昨年来、調査資料のご寄贈を頂いております。郵送でお届けいただいた資料を開梱し、ぺらぺらとめくっていたときのこと。見覚えのある名前の手紙に気づきました。差出人「大岡明男」さんとありました。大岡さんは、私がお手伝いさせていただいている慶應の書道会のOBで、昭和18年経済学部卒の大先輩。あるパーティーで一度お目にかかりシベリア抑留の体験者であると知り、聞き取りをさせて頂きたいと思っていたため、名前をよく記憶していました。 その手紙は、経済学部生時代の同窓で戦歿された「今西太一」さんが戦歿者として記録されているかを気遣い、白井先生に問い合わせたもので、1991年の日付でした。

今西さんの名前もまた、私にはとても印象深く記憶されていました。少し前に広島県の大津島にある回天記念館を訪問し、慶應出身者の資料の調査を行っていたからです。今西さんは、いわゆる人間魚雷・回天の搭乗員として昭和19年11月20日にウルシー方面で亡くなられているのです。

大岡さんと今西さんが繋がったことは驚きで、すぐに大岡さんに連絡を取り、聞き取りを行いました。昨年の初夏のことです。 大岡さんには、シベリア抑留のことと共に、今西さんのことを詳しく伺いました。お二人は、共に慶應の大学予科(日吉)出身ではなく、経済学部(三田)からの編入学者だったため、お互いに良く知る仲であったようです。いわばマイノリティー同士。だからこそ、戦歿しても忘れられているのではないかと、気にされたのでしょう。

今西さんは京都の出身で荻窪に下宿、大岡さんは自宅が荻窪。そのため荻窪で顔を合わせたこともあったこと、藤林敬三先生の研究会でも一緒であったと思う、ともおっしゃいました。そして、見せて下さったのが、今回展示している1枚の葉書です。それは昭和20年の初めのもので、当時大陸にいた大岡さんが、今西さんの特攻出撃を知り、親への葉書でそのことに言及しています。

「研究会での学友は神潮特攻隊の一員として南海のウルシー島に特殊潜航艇に乗って敵艦に体当りした事を新聞によって知り、強き感動を受けた。自分も皇国の為に潔く散る日に備へて訓練修養に努めてゐる。」

このように記されています。今西さんの出撃は新聞で知ったそうですが、その新聞記事には次の今西さんの辞世が出ていたとのこと。

「一億の大和をみなも丈夫(ますらお)も 一日ぐっすりねかせたい」

力んだ言葉が並ぶ記事のなかで、気負いのない淡々とした彼らしい言葉として強く印象に残り、今でもそらんじられるとお話し下さいました。

その聞き取りから、半年以上が過ぎました。今年の春、藤林敬三先生のご遺族よりお申し出を受けて、先生の旧蔵資料を受け取りに鎌倉の旧宅にお邪魔させて頂く機会がありました。今では使われていない自宅のあちこちから、戦前戦中の資料が出てきました。その一つが、今回第2会場に展示している、勤労動員に関する手帳です。その中には、慶應に委託されていた上智大学の学生に関する記述があり、その箇所を展示しています。

段ボール10数箱に資料を詰めて、そろそろ引き揚げようかというときです。最後に探索したエリアで、藤林先生がゼミの学生から送られたらしい色紙が数枚出てきました。多くは戦後のものでしたが、1枚ヨレヨレになった古びた1枚がありました。それを見て、たぶん声を上げたと思います。資料が繋がった瞬間でした。そこには特徴のある端正な字で「今西太一」と署名がありました。そしてその左隣には、草書で「大岡明男」の署名がありました。

資料を収集していくと、このように、人と人、資料と資料が、不思議と繋がっていくことがあります。それが歴史調査の醍醐味でもあります。

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(これがその色紙です)

先週、大岡さんが会場に足を運んで下さいました。なにやら大きな紙を丸めてご持参で、それを広げると、今西さんの辞世が出ている新聞のコピーでした。図書館で縮刷版をめくられたようです。そして、そこには確かに、上記の歌が記されていました。

色紙は今回展示していませんが、「地味」な展示物一つ一つに、このようなサイドストーリーがあります。(都倉)

2015年6月11日 (木)

クリスチャンの特攻隊員

慶應出身・クリスチャン・特攻隊員という方がいらっしゃいました。本川讓冶さんです。

この方は、いわゆる学徒出陣(昭和18年12月)の少し前に、海軍飛行予備学生(13期)を志願して海軍に入隊、昭和20年5月11日に特攻出撃で戦死されています。

遺稿集『雲ながるる果てに』に最後の手紙が掲載されており、その中で特攻機に聖書と讃美歌集を持っていくと書き残しています。

今回の展示に是非ともこの方を紹介したいと思い、実物資料を探していたのですが、どうしても見つからず、やむを得ず(この展覧会シリーズでは写真以外の資料は、実物しか展示しない方針でしたが)例外的に写真パネルで、自筆の色紙を展示致しました。

ところが、展示作業のさなか、ご遺族との連絡が取れ、実物を借用することが出来ました。上記の遺稿集に出ている手紙は、依然所在がわかりませんが、別の手紙と色紙を展示予定です。準備が間に合わず、開幕にはあわせられませんでしたが、
7月1日からは必ず展示に加わります。

既にご覧頂いた方も、宜しければ本川さんの資料の追加をご確認下さい。ちなみにこの方は、3年前に亡くなられた生田正輝先生(マスコミ論)の予科時代のクラスメイトです。(都倉)
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