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2014年2月の4件の記事

2014年2月27日 (木)

中練と、辞世の句と、千種先生と

昭和18年の学徒出陣で海軍第14期飛行専修予備学生となり、特攻待機中に終戦を迎えた故高山知之さん(昭22年経卒)のご遺族から、操縦訓練を受けていた昭和19年5月から8月までのノート2冊のご寄贈がありました(峯村隆二氏寄贈)。

練習用飛行機(中練)の操縦訓練時のノートです。1年前には日吉や三田で文系の授業を受けていた学生が、翌年にはパイロットとしての訓練を受けていたという事実はなかなか実感できませんが、このような実物を前にすると、より具体的に考えることができます。

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   (昭和19年)7月27日付、「編隊飛行離着陸」とあり。

さらに、高山さんが裏に辞世の句を書いた写真2枚もご提供頂きました。この写真はそのうちの一つです。辞世の句はもう1首あります。高山さんは昭和20年8月15日朝、樺太方面への出撃が予定されていたものの中止になったと私家版の自叙伝に記しています。

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   上の写真の背景は桜。下の辞世の句にはこうある。
   「吾が愛し 吾が愛されし 国民に 祥あれかしと 祈りつゝ征く」

同時にご寄贈頂いたものには、「価値論講義」と表題のある赤茶けたガリ版刷りの教科書もあります。経済学部の千種義人教授の教材で、昭和21年夏のものとわかります。学生からパイロットになり特攻待機、そしてまた学生に戻り、勉強を再開したことが、一人の、しかもわずか2年ほどの間に起こったことは、いまだに十分理解できていないように思うことがあります。

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2014年2月17日 (月)

「平和来」、「還らざる学友の碑」も雪化粧

2週にわたる大雪で、入試シーズンの三田キャンパスも真っ白になりました。塾監局前庭にある慶應義塾の戦没者慰霊の2つのモニュメントも、雪化粧です。

左は「平和来」(へいわきたる、通称へいわらいと呼ばれます)の像。朝倉文夫作。昭和32年設置。右奥は本を開いた形の「還らざる学友の碑」。こちらは平成10年の除幕です。

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自由派「慶應」の戦争  Asahi Shimbun Weekly AERA 2014.2.17

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=15637

P.53

タイトル

太平洋戦争で同窓2200人が没した慶應義塾の自己検証

自由派「慶應」の戦争

自由な校風の慶應義塾。しかし、太平洋戦争では約2200人もの同窓生が没した。

慶應は戦争とどう向き合ったのか。学徒出陣から70年を機に、検証が始まった。

2014年2月 1日 (土)

応援指導部OB遺族からのアルバム寄贈

応援指導部の伝説的OBの一人であるという故五島岩四郎さん(昭22経)のご夫人雅子さんより、このたびアルバム4冊をご寄贈頂きました。

戦中戦後の慶應義塾の貴重な写真を収集して作られたアルバムです。今日慶應の歴史を語る上で必ず使われる写真の幾つかは、このアルバムをはるか50年以上前に慶應義塾が複写させてもらったものでした(例えば、このプロジェクトのフェイスブックに使用されている空襲後の三田キャンパスの写真など)。

じっくり拝見すると、「最後の早慶戦」の新写真もあり、ご自身の海軍時代の写真(昭和19年の学徒出陣)もありますが、特に戦後復興期の慶應義塾の行事や六大学野球に関する写真が充実しています。戦中戦後を記録する大変貴重な資料がまた一つ加わり、大変ありがたく思います。

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いわゆる「最後の早慶戦」(昭和18年10月16日開催)の新写真


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新応援歌「我ぞ覇者」(昭和21年)発表会のプログラムに添えられたキャプションにはこうある。「戦ヒ終リ、学園ニ帰リタルモ意気沈滞、我々ハ此処ニ新応援歌「我ゾ覇者」ヲ作リ、之ヲ機会ニ塾ニ昔ノ活気ヲトリモドスト共ニ、燃ケタ大三色旗ヲ復活スベク努力シタ」


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慶應応援席の指揮を執る五島岩四郎氏の勇姿(後楽園球場)


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