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2014年12月の2件の記事

2014年12月12日 (金)

続・開戦日の日吉の写真

塾高の阿久沢武史先生が、先日の記事の現場検証にご協力下さいました。結論は「第1校舎1階の事務室の窓からの写真」と出ました。

窓の大きさや、窓の外に見える校舎のディテール、右下の窓のすぐ外に少し枝葉が写っている木がヒマラヤスギだとすると、その位置に今も一本生えていること等々、半日をかけて様々な角度から検証して下さいました。

反対側は、窓の大きさが違い、主任室(校長室)なので、ラジオ放送を流すとしたら事務室(当時から事務室)の方が可能性が高いのではないか、と推測されました。

ほぼ同じ位置を、中庭に出て撮って下さった写真がこちら。阿久沢先生、ありがとうございました。
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ちなみに、前回掲載した芳賀日出男さんの写真のアルバムをもう一度確認したところ、すぐ隣にはこの写真が貼られていました。
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昭和17年2月16日、シンガポール陥落を祝して中庭で塾生が祝賀式を挙行し、合唱しているシーンとキャプションがあります。この写真では足下に雪があり、中央のヒマラヤスギに雪が積もっています。

毎度引き合いに出すこちらの写真では、足下は見えませんが、よく見ると左の方の木に雪が見えます。そうすると、この写真は、おそらくこの昭和17年2月16日ではないかと推定できます。昨年の展覧会の際に私が推定した「昭和17年初旬ヵ」というのが、だいたい合っていたことになります。

この写真は益田有紀彦(司)さん(昭和22年経済卒)から寄贈を受けたアルバムに貼られており、キャプションに「平出大佐 太平洋戦局を語るの日!」などと書き込まれています。

平出英夫大佐は、海軍のスポークスマンとして当時の資料によく出てきますが、慶應にもやってきたという話を何度か聞き取りで耳にしました。ただ、いつどこに来たかということについては、十分裏がとれておりません。こういった細かい情報が、この時代はほとんど記録として残っておりません。『三田新聞』にも『三田評論』にも出ていないのです。

そういうわけで、一枚の写真でも、一冊のノートでも集めておきたいということになるわけです。どうか、引き続きよろしくお願いいたします。

2014年12月 8日 (月)

開戦日の日吉の写真

本日は12月8日、開戦の日です。

この日の慶應義塾の様子について教えてくれる資料は非常に乏しく、ほとんど何もありませんでした。昭和16年~18年の学徒出陣までの学内の動きを追うことを主眼とした昨年の「慶應義塾の昭和十八年」という展覧会の時点では、「この日」を展示する資料は、従来から知られていた学生(上原良司)の日記しかありませんでした。

このプロジェクトを開始して1年半余り、集まってきた写真アルバムの中に、「この日」の様子の可能性がある写真が数枚発見されました。そのうち、間違いないと思われるのがこの一枚です。
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10月の展覧会で展示した写真家の芳賀日出男さん(当時大学予科3年)の写真です。キャプションには次のように記されています。

 聖断の時遂ひに至る!昭和十六年十二月八日!
 「吾が精鋭なる海軍は真珠湾にせまりつゝあり、
  又空軍はすでにハワイ空襲…」
 スピーカーの前に塾生が耳をすまして胸と頬をふるはしてゐる…。

画像ではわかりにくいかと思いますが、日吉第一校舎(現在の慶應高校)の中庭に面した窓辺にラジオの音声を伝えるスピーカーが設置されており、着帽の塾生たちがそれに耳を傾けているという写真です。背後にもうっすらと第一校舎が見えています。これが現存する校舎の中から撮られたとすると現在の主事室か庶務課の辺りから中庭を見た写真ではないかと推定します。同じ日の写真である可能性があるこの写真と見比べると、いかがでしょうか。奥に写っている窓のどこかではないかと思われます。

この記事を見る塾高生や塾高の先生がいらっしゃいましたら、ぜひ現場検証をお願いできればと思います。

(第一校舎は上から見るとアルファベットのEの形をしており、この写真はEの真ん中の横棒の上側か下側から外を見ている状態と思われるので、背後にも校舎が写っています。背後の校舎の右端に中庭への出入り口らしいものが見え、この位置で場所が特定できるかもしれません。今は理科棟や美術・音楽の校舎が建っている場所にあった、現存しない校舎の窓の可能性もあるかなと思います。細かい話ですが、どなたか是非!)

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