第1会場は、8月6日までです
本日で第2会場は閉幕いたしました。
たくさんの方にご来場頂きまして有り難うございます。残り1週間は第1会場だけとなりますが、日曜日を除いて開いておりますので、まだの方は、ぜひともお越し下さい。
今週火曜日まで、6回にわたりギャラリートークを開催し、たくさんの方にお越し頂きました。資料をご提供頂きました皆様にも多くお越しいただけましたことをありがたく思います。
撮影:石戸晋
本日で第2会場は閉幕いたしました。
たくさんの方にご来場頂きまして有り難うございます。残り1週間は第1会場だけとなりますが、日曜日を除いて開いておりますので、まだの方は、ぜひともお越し下さい。
今週火曜日まで、6回にわたりギャラリートークを開催し、たくさんの方にお越し頂きました。資料をご提供頂きました皆様にも多くお越しいただけましたことをありがたく思います。
撮影:石戸晋
展覧会も会期末が近づいてきました。第2会場は残りがあと1週間になりました。
今回の展覧会も多くのメディアで取り上げて頂きましたが、第1会場の塚本太郎の音声に話題が集中しました。私としては第2会場ももう少し注目してもらえると思ったのに、それが外れたことが残念です。
特に幼稚舎の集団疎開に関する資料は、来場者には最も興味を引いているもののように感じられます。昭和19年8月から20年10月にいたる静岡県修善寺と青森県木造(きづくり)での疎開に関する資料が、多くの方の目に触れたのはこれが初めてのことと思います。特に面白いのは疎開児童と親たちの交わした葉書です。今回の展示では一挙113枚を展示しています。
日本の飛行機や艦船、あるいは上空に飛来したB-29の姿を描いたもの、のらくろや身近な風景を描いたものなど、目を引く絵もありますし、文章も読んでいきますと、日常の描写が大変興味深いです。中には東京の家が空襲で焼けてしまったことを伝えている葉書などもあります。
会場では連日、この一面に並んだ葉書を拾い読みしている方々の姿を見かけます。時には現役の幼稚舎生や横浜初等部の児童の姿も。小学生にとっても戦争の歴史をぐっと身近に考えるきっかけになるかと思いますので、ぜひお見逃しなく。
今までの展示とは違う客層で、保護者の方がお子さんに熱心に説明して下さっている姿もよく見かけ、うれしく思います。(この写真ではちょっと飽きているかも(?)。)
第2会場は他に、勤労動員に関する資料と、日吉の米軍接収についても展示しています。勤労動員は資料が乏しく非常に困りましたが、今回初めて各学校の学年別勤労動員先一覧を作成しました。まだまだ情報が不足していますので、資料のご提供を切に願っております。
また、日吉の米軍接収につきましては、戦後の義塾経営の苦心がよくわかるかと思います。カラーを含む戦後間もない時期の映像も見所です。こちらもぜひご覧下さい。
動画の一コマ。まるで闇市のような(?)雑然たる時代の日吉が映し出されます。背後はいわゆる「かまぼこ校舎」(米軍の残した兵舎を教室に転用したもの)
6月4日にNHKで放送されたニュースの内容が下記に詳しく掲載されています。見逃された方は、是非ご覧下さい!
7月22日の日本経済新聞で、展覧会「慶応義塾の昭和二十年」(8月6日まで)が紹介されました。会場では、人間魚雷「回天」の搭乗員になった塚本太郎さん(当時21)の音声を流しています。1943年10月、学徒出陣の壮行式の後、銀座で広告関係の仕事をしていた父親のスタジオでレコードに別れの言葉をふき込まれたものです。
「慶應義塾の昭和二十年」展で行った7月16日のギャラリートークの様子をお伝えします。 開始時間は、午後2時40分。第1会場からスタートしました。6つの章に分けられた展示を順番に進みながら、都倉武之が説明を加えていきました。所要時間は1時間程度でした。
慶應義塾は、全国で最大の空襲被害を受けた大学といわれる。三田は校舎の5割(昭和20年5月24・25日)、四谷(信濃町)は6割(同5月24日)、日吉は工学部の8割(同4月15日)を焼失した。
慶應義塾関係の戦没者は、これまでに2200余名が確認されている。ここでは、特攻関係を中心に、死に直面させられた彼らが、複雑な心境を抱いていたことの一端が紹介された。
戦争が慶應義塾にもたらした影響は多大であった。小泉塾長自身が負傷し、義塾の運営を巡り混乱が生じた一方で、復員学生を中心に多彩な学生文化が花開き、復興機運が高められていった。
第一会場から第2会場に移動します。正門から出て信号を渡ります。
幼稚舎では、昭和19年3月、復学を認めることを約して政府方針に従い縁故疎開を奨励、残った3年生以上の350名余りが8月末より静岡県修善寺町(現伊豆市)に集団疎開した。20年7月には米軍上陸の可能性から青森県木造町(現つがる市)へ再疎開し、全員無事に終戦を迎えた。
疎開中の幼稚舎生が家族や縁故疎開した友人たちと交わした葉書100枚が展示されている。
昭和19年以降、「勤労即教育」の政府方針により、中学以上は全て学徒勤労動員の対象となり、授業はほとんど行えない状況となった。教員には戦時に対応した研究が奨励されつつも、これお奇貨として学問の幅を広げる模索も行われた。トークでは、農学部の設立の検討経緯などが紹介された。
昭和20年9月、日吉キャンパスが米軍に接収されたことは再建を目指す義塾にとって大打撃であった。続々と復学する学生と校舎難、不安定な経済状況の中で、創立90年記念式典は復興機運を大いに盛り上げたが、昭和24年の日吉返還でようやく本格的な歩みを始めたのであった。
7月25日(土) 10:30・14:40
7月28日(火) 10:30