カテゴリ「*都倉武之」の66件の記事 Feed

2015年5月29日 (金)

第1会場展示完了!

第3回の展覧会が6月1日より開幕します。昨日と本日、図書館展示室での展示作業を行い、本日夕方、完了しました。

Dscn4514_r

Dscn4500_r

Dscn4516_r

Dscn4517_r

今回の準備は、非常に日程が厳しく(自分で決めたわけですが)、大変な綱渡りでした。どれほど大変だったかは、このブログにおいて、ほとんど事前の宣伝を出来なかったことがよく伝えてくれることでしょう…笑。

また、展示作業中に、探し求めていた実物の所在が判明した資料がありますので、途中追加する資料が出ると思います。

なお、第1会場と第2会場で会期にズレがあります。両方ご覧頂けるのは7月1日~31日となりますので、日程にご注意頂きまして皆様ぜひお越し下さい。(都倉)

2015年4月 1日 (水)

真珠湾攻撃に参加した佐々木正五さん

慶大医学部名誉教授で、東海大学医学部初代学部長を務められた佐々木正五さん(昭和16年医学部卒、昨年11月逝去)の遺品をご遺族からご寄贈いただきました。

佐々木さんは、伊号第四潜水艦の軍医長として、真珠湾攻撃に参加。ご寄贈いただいた資料には、そのときの使用品や日誌なども含まれます。

日誌は、慶應医学部時代の「法医学」の授業ノートのあまりを使ったらしく、表紙には塾旗やペンマークのデザインがあります。 Dscn4000_r

中には酸素濃度などの記録等の淡々とした記述があります。交信が遮断されているので戦闘の詳細はわからないが、今頃出動している機動部隊の「成功ヲ祈ルノミ」とあります。伊4は周辺海域での監視を行っていましたが、一度は米艦船に包囲され、危うく撃沈されそうになったようです。このことについては、『三田評論』2011年12月号掲載のご本人執筆の興味深い記事があります。 Dscn4001_r

目を引くのは佐々木さんのお父様が息子の記念品としてとってあった軍装品です。正五さんが真珠湾攻撃の際つけていた鉢巻と軍帽の前章(帽子の前面についているマーク)を丁寧に和紙で包み、赤い紐をかけて保管してあります。帽子の前章は、潮をかぶりさびている、とあり、実際酷く変色しています。 Dscn4002_r

これらの資料は、次回の展覧会において、【特別出品】として展示予定です。展覧会についてはまもなく告知させて頂きますが、6月1日~8月6日の期間で図書館展示室にて開催を予定しており、そのうち7月1日~31日は、アート・スペースとの同時開催となります。

2015年2月18日 (水)

戦争末期の藤原工業大学と、その学風

理工学部の前身である藤原工業大学は昭和19年の夏に慶應義塾大学工学部となりましたが、もともと慶應に寄附される予定であったため、昭和14年の創立の当初から慶應のキャンパスの中に校舎が作られました。日吉駅から見て銀杏並木の左側、現在大学の校舎が建ち並んでいる敷地です。

その藤原工業大学に、昭和18年末に就職したという山本弥生さん(旧姓斎藤)のアルバムを寄贈して頂きました。そのアルバムからいくつか写真を。

Fmc001_rこの写真は、学生または院生(特別研究生)と女性職員の集合写真のようですが、まるで戦争末期の雰囲気がありません。しかし壁に貼り出されている(?)文字を見ると、「イザヤコソ撃チテシ止マン」などと勇ましいことが書いてあり、それとのギャップが興味深く思われます。後列左から2人目は久野洋さん(後の塾長)ではないかと思われます。

Fmc002_rこの写真は、昼休みのバレーボールか何かでしょうか。背後は藤原工大予科の木造校舎(現在の塾生会館の辺り)で、女性たちが立っている場所は当時のグラウンド。現在の食堂棟や来往舎の辺りです。

Fmc003_rこれはバレー(?)の集合写真の隣のページに記入されている言葉です。キャプションではないようです。当時からキャンパスの裏の谷を「まむし谷」と呼んでいることがわかります。そちらではバスケットをしています(現在慶應高校のバスケ・バレーコートがある辺りのことでしょう)。先生が講義だからと、10時半からバスケとは!

これらの写真は昭和19年中のものと思われますが、学徒出陣後のキャンパスの「日常」がわかる非常に珍しい写真です。

先日、元衆議院議長の綿貫民輔さん(昭和25年卒)の聞き取りをさせて頂きました。綿貫さんは昭和19年に藤原工大入学(専攻が廃止されたため、戦後経済学部に転部)で、まさに当時日吉に通っていた学生ですが、お話によると、当時の藤原工大生は、「制服は慶應と一緒でも、俺たちは藤原工大生だ」という強い自負があり、学風もかなり違ったとのこと。裸足で草履を履き、腰からは手ぬぐいを下げたバンカラ風をしていたとのことで、慶應生の制服の歴史に関心を持っている私は、不覚にも全く初耳で驚きました。

昨年、理工学部75年のパーティーで、大合唱が起こった惜春の譜(はたぐも)という藤原工大生の歌が、旧制高校の寮歌のような雰囲気を持っていることを思い出しました。その歌詞は以下のようなものです。

 惜春の譜(はたぐも)

  鰭雲(はたぐも)遠き野にたちて 
  春を送りて鳥啼けば
  帰らぬ生命惜しまれて
  君がまみ(瞳)にも涙あり
  嗚呼 青春の日は逝かんとす
   (※1番のみ。本当は4番まであります。)

アルバムの写真からわずかの後に、工学部の校舎は空襲で壊滅、戦後は仮校舎を転々としたあと小金井に落ち着き、日吉に戻ってくるまで20年以上を要しました。昭和46年の日吉(矢上)への移転を日吉「復帰」と呼んだことに苦難の歴史がにじみます。

2015年2月 2日 (月)

特別展「陸にあがった海軍 -連合艦隊司令部日吉地下壕からみた太平洋戦争-」

しばらく更新が止まり申し訳ありません。大学は定期試験が終わり、これから入試シーズンを迎えて参ります。

ところで、先週の土曜日から、神奈川県立歴史博物館で、特別展「陸にあがった海軍 -連合艦隊司令部日吉地下壕からみた太平洋戦争-」が始まりました。日吉キャンパスの地下にある海軍の地下壕に関する展覧会です。これまで本格的な展覧会は行われたことがないテーマですので、大変楽しみにしておりました。

福沢研究センターからも展示資料等の面で協力しております。中には、私が何となく気になって某所で拾ってきたゴミと紙一重のもの(拾わなかったものは廃棄された)も展示されています…笑。ぜひ探してみて下さい。

会期:2015年1月31日(土)~3月22日(日)
詳細はこちら

201502021458_0001_r
この写真は、10年以上前のものです。

日吉の地下壕については、本プロジェクトでも調査対象としております。資料寄贈も数件ありましたが、特に慶應義塾出身でこの地下壕で勤務していた方を探しております。何人か判明したものの、ご存命の方が見つかっておりません。もしご存知の方がいらっしゃいましたらご一報いただければ幸いです。

2014年12月12日 (金)

続・開戦日の日吉の写真

塾高の阿久沢武史先生が、先日の記事の現場検証にご協力下さいました。結論は「第1校舎1階の事務室の窓からの写真」と出ました。

窓の大きさや、窓の外に見える校舎のディテール、右下の窓のすぐ外に少し枝葉が写っている木がヒマラヤスギだとすると、その位置に今も一本生えていること等々、半日をかけて様々な角度から検証して下さいました。

反対側は、窓の大きさが違い、主任室(校長室)なので、ラジオ放送を流すとしたら事務室(当時から事務室)の方が可能性が高いのではないか、と推測されました。

ほぼ同じ位置を、中庭に出て撮って下さった写真がこちら。阿久沢先生、ありがとうございました。
_r

ちなみに、前回掲載した芳賀日出男さんの写真のアルバムをもう一度確認したところ、すぐ隣にはこの写真が貼られていました。
E6be7277_r
昭和17年2月16日、シンガポール陥落を祝して中庭で塾生が祝賀式を挙行し、合唱しているシーンとキャプションがあります。この写真では足下に雪があり、中央のヒマラヤスギに雪が積もっています。

毎度引き合いに出すこちらの写真では、足下は見えませんが、よく見ると左の方の木に雪が見えます。そうすると、この写真は、おそらくこの昭和17年2月16日ではないかと推定できます。昨年の展覧会の際に私が推定した「昭和17年初旬ヵ」というのが、だいたい合っていたことになります。

この写真は益田有紀彦(司)さん(昭和22年経済卒)から寄贈を受けたアルバムに貼られており、キャプションに「平出大佐 太平洋戦局を語るの日!」などと書き込まれています。

平出英夫大佐は、海軍のスポークスマンとして当時の資料によく出てきますが、慶應にもやってきたという話を何度か聞き取りで耳にしました。ただ、いつどこに来たかということについては、十分裏がとれておりません。こういった細かい情報が、この時代はほとんど記録として残っておりません。『三田新聞』にも『三田評論』にも出ていないのです。

そういうわけで、一枚の写真でも、一冊のノートでも集めておきたいということになるわけです。どうか、引き続きよろしくお願いいたします。

展覧会

facebook

運営組織