2015年7月16日 (木)

ギャラリートークの様子

「慶應義塾の昭和二十年」展で行った7月16日のギャラリートークの様子をお伝えします。 開始時間は、午後2時40分。第1会場からスタートしました。6つの章に分けられた展示を順番に進みながら、都倉武之が説明を加えていきました。所要時間は1時間程度でした。


第1会場 空襲、戦死、終戦 慶應義塾図書館展示室

空襲

慶應義塾は、全国で最大の空襲被害を受けた大学といわれる。三田は校舎の5割(昭和20年5月24・25日)、四谷(信濃町)は6割(同5月24日)、日吉は工学部の8割(同4月15日)を焼失した。

Dsc02696

戦死

慶應義塾関係の戦没者は、これまでに2200余名が確認されている。ここでは、特攻関係を中心に、死に直面させられた彼らが、複雑な心境を抱いていたことの一端が紹介された。

Dsc02705

終戦

戦争が慶應義塾にもたらした影響は多大であった。小泉塾長自身が負傷し、義塾の運営を巡り混乱が生じた一方で、復員学生を中心に多彩な学生文化が花開き、復興機運が高められていった。

Dsc02706


第一会場から第2会場に移動します。正門から出て信号を渡ります。

Dsc02710


第2会場 疎開、動員、占領 慶應義塾大学アート・スペース

疎開

幼稚舎では、昭和19年3月、復学を認めることを約して政府方針に従い縁故疎開を奨励、残った3年生以上の350名余りが8月末より静岡県修善寺町(現伊豆市)に集団疎開した。20年7月には米軍上陸の可能性から青森県木造町(現つがる市)へ再疎開し、全員無事に終戦を迎えた。

疎開中の幼稚舎生が家族や縁故疎開した友人たちと交わした葉書100枚が展示されている。

Dsc02727

動員

昭和19年以降、「勤労即教育」の政府方針により、中学以上は全て学徒勤労動員の対象となり、授業はほとんど行えない状況となった。教員には戦時に対応した研究が奨励されつつも、これお奇貨として学問の幅を広げる模索も行われた。トークでは、農学部の設立の検討経緯などが紹介された。

Dsc02739

占領

昭和20年9月、日吉キャンパスが米軍に接収されたことは再建を目指す義塾にとって大打撃であった。続々と復学する学生と校舎難、不安定な経済状況の中で、創立90年記念式典は復興機運を大いに盛り上げたが、昭和24年の日吉返還でようやく本格的な歩みを始めたのであった。

Dsc02748


今後のギャラリートークの予定

7月25日(土) 10:30・14:40

7月28日(火) 10:30

2015年7月 8日 (水)

シベリア帰りの「指ぬき」

展覧会開始後に資料のご寄贈が続いております。

こちらは、「指ぬき」です。不揃いなブツブツでおわかりの通り、自作のもの。シベリア抑留で裁縫工として働かされた際に使用したものだそうです。赤塚美希子様よりお父様の故深柄光勇さん(昭和23年経済卒)の使用品としてご寄贈いただきました。

Dscn4691_r

これがシベリア時代のものとは知らなかったそうですが、昭和60年に私家版として作ってあった自分史の中に「アルミの指ぬきは、今も抑留時代の記念品として保存している」と書かれていることに気づいて探したところ、これが見つかったとのことでした。

深柄さんは短歌がお好きだったそうで、自分史にはこの指ぬきについても歌われています。

  浴場の裁縫工となり日々をシャツ縫うアルミの指ぬき用いて

  修繕を待つシャツ数多前に置き素早く進めぬ針の運びを

  修繕の布縫う針のスピードも日増しに早し裁縫工われ

シベリア抑留の遺物は、大谷正春さんからご寄贈いただいた木製のスプーンに続いて2つめとなりました。

2015年7月 3日 (金)

資料が繋がるとき ―今西太一さんのこと

今回の展示は、特に第1会場が「地味ね」と、ある人に言われました。確かに今回は紙資料が多いかもしれません。その「地味」な資料の一つに、大岡明男さんの葉書があります。この葉書1枚の展示だけでは語り尽くせないことを少しご紹介します。

Dscn4638_r(第1会場です。ちょっとだけ展示替えしました)

大学と戦争という分野に先鞭をつけられた白井厚先生に、一昨年来、調査資料のご寄贈を頂いております。郵送でお届けいただいた資料を開梱し、ぺらぺらとめくっていたときのこと。見覚えのある名前の手紙に気づきました。差出人「大岡明男」さんとありました。大岡さんは、私がお手伝いさせていただいている慶應の書道会のOBで、昭和18年経済学部卒の大先輩。あるパーティーで一度お目にかかりシベリア抑留の体験者であると知り、聞き取りをさせて頂きたいと思っていたため、名前をよく記憶していました。 その手紙は、経済学部生時代の同窓で戦歿された「今西太一」さんが戦歿者として記録されているかを気遣い、白井先生に問い合わせたもので、1991年の日付でした。

今西さんの名前もまた、私にはとても印象深く記憶されていました。少し前に広島県の大津島にある回天記念館を訪問し、慶應出身者の資料の調査を行っていたからです。今西さんは、いわゆる人間魚雷・回天の搭乗員として昭和19年11月20日にウルシー方面で亡くなられているのです。

大岡さんと今西さんが繋がったことは驚きで、すぐに大岡さんに連絡を取り、聞き取りを行いました。昨年の初夏のことです。 大岡さんには、シベリア抑留のことと共に、今西さんのことを詳しく伺いました。お二人は、共に慶應の大学予科(日吉)出身ではなく、経済学部(三田)からの編入学者だったため、お互いに良く知る仲であったようです。いわばマイノリティー同士。だからこそ、戦歿しても忘れられているのではないかと、気にされたのでしょう。

今西さんは京都の出身で荻窪に下宿、大岡さんは自宅が荻窪。そのため荻窪で顔を合わせたこともあったこと、藤林敬三先生の研究会でも一緒であったと思う、ともおっしゃいました。そして、見せて下さったのが、今回展示している1枚の葉書です。それは昭和20年の初めのもので、当時大陸にいた大岡さんが、今西さんの特攻出撃を知り、親への葉書でそのことに言及しています。

「研究会での学友は神潮特攻隊の一員として南海のウルシー島に特殊潜航艇に乗って敵艦に体当りした事を新聞によって知り、強き感動を受けた。自分も皇国の為に潔く散る日に備へて訓練修養に努めてゐる。」

このように記されています。今西さんの出撃は新聞で知ったそうですが、その新聞記事には次の今西さんの辞世が出ていたとのこと。

「一億の大和をみなも丈夫(ますらお)も 一日ぐっすりねかせたい」

力んだ言葉が並ぶ記事のなかで、気負いのない淡々とした彼らしい言葉として強く印象に残り、今でもそらんじられるとお話し下さいました。

その聞き取りから、半年以上が過ぎました。今年の春、藤林敬三先生のご遺族よりお申し出を受けて、先生の旧蔵資料を受け取りに鎌倉の旧宅にお邪魔させて頂く機会がありました。今では使われていない自宅のあちこちから、戦前戦中の資料が出てきました。その一つが、今回第2会場に展示している、勤労動員に関する手帳です。その中には、慶應に委託されていた上智大学の学生に関する記述があり、その箇所を展示しています。

段ボール10数箱に資料を詰めて、そろそろ引き揚げようかというときです。最後に探索したエリアで、藤林先生がゼミの学生から送られたらしい色紙が数枚出てきました。多くは戦後のものでしたが、1枚ヨレヨレになった古びた1枚がありました。それを見て、たぶん声を上げたと思います。資料が繋がった瞬間でした。そこには特徴のある端正な字で「今西太一」と署名がありました。そしてその左隣には、草書で「大岡明男」の署名がありました。

資料を収集していくと、このように、人と人、資料と資料が、不思議と繋がっていくことがあります。それが歴史調査の醍醐味でもあります。

Dscn4610_r

(これがその色紙です)

先週、大岡さんが会場に足を運んで下さいました。なにやら大きな紙を丸めてご持参で、それを広げると、今西さんの辞世が出ている新聞のコピーでした。図書館で縮刷版をめくられたようです。そして、そこには確かに、上記の歌が記されていました。

色紙は今回展示していませんが、「地味」な展示物一つ一つに、このようなサイドストーリーがあります。(都倉)

2015年6月30日 (火)

第2会場設営完了

昨日と本日で、第2会場の設営を行いました。第2会場のタイトルは「疎開、動員、占領」です。集団疎開、勤労動員、日吉の米軍接収を主に扱います。
1dscn4663_r

見所としては、集団疎開中の幼稚舎生が書いたり受け取ったりした葉書を一挙100枚以上、並べて読めるように展示しています。
2dscn4661_r
3dscn4671_r葉書の設置は、とっても手間がかかっています。

5dscn4667_r葉書のクローズアップはこのような感じ。


4dscn4672_rまた、戦後間もない時期の慶應義塾が製作した貴重な動画も上映します。その他、こんなものが残っているのか、という「ちょっとした資料」が集まっていますので、是非お立ち寄り下さい。

2015年6月22日 (月)

99歳の講義!

本日、日吉の授業で、今年99歳になる鈴木和男さん(昭和14年政治学科卒)に講義をしていただきました。
Dscn4602_r

鈴木さんは、大正5年生まれ、同12年に幼稚舎入学以来慶應で、その年の関東大震災も記憶されています。大学予科の入学が昭和8年で、日吉キャンパス開設の前年。ということで予科生として日吉を経験されていない最後の学年です(それまで予科も三田でした)。

卒業の翌昭和15年に応召、以後昭和21年の復員まで陸軍で生活。開戦時は香港攻略に参加、その後パレンバン、タルトン(北スマトラ)を経て、ラバウルに入り、昭和17年12月、ガダルカナル島に上陸。以後1か月余りを過ごし18年2月に脱出、ブーゲンビル島を経てラバウルで終戦を迎えました。

ガダルカナルでの経験は言い表せないとのことでしたが、上陸時につまづくと足下に次々にしゃれこうべが落ちていた様子。最初は手を合わせていたが、すぐにキリがなくなりやめたこと。高温多湿で3日で遺体が白骨化したこと。脱出時には危篤だったはずの重傷者が自力で歩き出し乗船したこと(生への執着)。人肉食の「噂」などについてもお話し下さいました。

現代社会とあまりにかけ離れている側面もあり、学生には戸惑う内容もあったかもしれません。1世紀を生きてこられた大先輩の言葉はどのように受け止められたでしょうか。
Dscn4607_r駆けつけて下さった毎度おなじみ、昭和19年三田会代表の神代さん(右)と鈴木さん。お二人の年齢を合計すると190歳!!

展覧会

facebook

運営組織